大日本地名辞書
大日本地名辞書は、吉田東伍著による総合大地誌であり、全国の地名の由来・史跡・地形・事物の興廃、その地に関係ある事柄を網羅した歴史地理的な地誌である。明治三十三年(1900年)3月に「第一冊上」が出版され、明治四十年(1907)年に脱稿した。
初版本は11分冊だが、武蔵国の記述が含まれる第四冊之上は、明治三十六年(1903年) 10月12日に発行された。これは昭和四十四年(1969年)~昭和四十六年(1971年)の増補版(全8巻)では、昭和四十五年(1970年)刊行の第6巻(坂東)に掲載されている。
以下、大日本地名辞書 第六巻(坂東)より、新座郡関連の部分を抜粋する[1][2]。
北多摩郡
保谷(ホヤ)
今保谷村と云ふ、北足立(旧新座)郡の管内なるも田無の東に接し、地勢当然北多摩に属す。(豊島郡石神井村の西)元禄中、保谷の南より玉川上水を分ちて、豊島郡板橋駅の方へ導き、江戸の北偏(小石川本郷上野浅草等)に給水せしむ。享保七年に落成〔一説に同年廃止、後出〕し、仙川(センカハ)上水と名づく、深代寺村の辺なる仙川〔センカハ〕の人、専其土工に任じたれば也。後給水を中止したることもありしが、近年又通水す、千川上水を参看すべし。
新座郡(ニヒクラ/シンザ)
明治二十九年、北足立郡へ併入す、然れども地勢荒川の西方に居りて、全く北足立郡と水を隔て、東京より川越に往来する交通にあたり、当然入間(若くは北豊島)郡の属とす。故に本篇は之を入間郡の首に掲ぐ。面積凡四方里、二町七村、人口二万余。又郡内保谷(ホヤ)の一村は、形状北多摩郡の域内に挿入するを以て、彼の郡に係けたり。
(新羅郡)
国郡沿革考云、新座郡は古の新羅(シラギ)郡なり、延喜式、新座に改む、初め「天平宝字二年八月、帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉」「宝亀十一年五月、武蔵国新羅郡人、沙良真熊等二人、賜姓広岡造」按、新羅改称の事、史に見えず、然れども和名抄新座郡二郷、志木(シラギ)、余戸あり、今白子村土人シラクと唱ふ、即志木の地にして、新羅の遺名なり、或曰、志木蓋志楽の誤ならん、木楽の草書、頗相似たればなり、又郡人沙良真熊等に広岡造の姓を賜ふ事は、其東隣豊島郡に広岡郷あるに因るなり、是亦新座は新羅の改称たるを証すべきなり。
○新風土記云、新座郡は和名抄爾比久良と註す、中古よりは仮借して新倉とも書せり、斯て近代に至り新倉村の人、己が村は郡の本郷なりとて、余の村をばおとし、其はては諍論を起し訴へけるより、時の代官郡名の字村名と同字を用ゐし故に、頑愚の民かかる僻事をいひ出すなれとて、倉の文字をば座の字に改められしとつたへたれど、その年代は詳ならず、元禄頃の事にや、それよりして唱も区々に別て、東南の方にてはニヒクラとも唱へ、又ニヒザとも云ひ、西の方高崎領の辺にてはシンザと唱ふ、かく古を失ひしかば、土人己がままに混乱したり、然るに享保二年、郡名の唱を定められ、今はニヒザと唱ふることとはなれり、中古まで此辺は武蔵野の末にて、茫々たる原野なれば、其比は今の新倉、白子の数村の地のみ民家ありと見ゆ、延喜式にも五十戸より以上、隣郡に附しがたき地は、別に一郡を置れし由見えたれば、この地撮爾たる村里なれど、地理に依りて一郡とは定められしならんか、郡内街道一条あり、江戸より川越への通路にして、僧日蓮佐渡国へ配せられし時、武蔵国に至り久米川の地より新倉をすぎ、日を経て児玉時国がもとに宿せし由、其年譜に見えたるは、ここに云へる古街道のことかや。
- 松山巡覧志云、新座村白子宿、土人はシラクといふ、古の新羅郡なり、類聚往来の武蔵国郡名の所に、新座郡となくて、新羅とあり、是は何によりて記せしや、古書になき事を、わづかに此書を以て証となしがたし、只後世の書に出たるが珍しければしるすのみ、但ししひて説をいはば、新座は新羅の転たるにや、さらば新座と書たるより、文字につきてにひくらと唱しか。
- ○今按、新羅を新座と改められしは、高麗を高座と改められしと同例にて、続紀、姓氏録に高麗氏を高倉に改められしこと見ゆ。但し当国高麗郡は此例に入らずして、依然高麗と唱へ来れり。又国史に、新羅人を武蔵国に配置せられしは、持統紀を所見とし、聖武帝の時、天平宝字二年郡名を建てられ、四年には「置帰化新羅一百三十一人於武蔵国」、五年には「令武蔵国少年二十人、習新羅語、為征新羅也」とあるなど、盛況想ふべし。清和紀、貞観十二年、新羅人清信、鳥昌、南巻、安長、金連等、五人を当国に移されしに、同十五年、新羅人中、金連以下三人、逃隠しければ、京畿七道諸国に令して、捜捕の事見ゆ、其後は帰化安置の事を聞かず。
埼玉県村名誌云、新座郡は合て一駅、一町、廿三村なり、凡南北三里余にして、面積四方里六あり、其地武蔵野の東端に際し、平坦高燥、多くは水に乏しきを患ふ、故に承応年中、松平信綱の家士安松金右衛門、多摩川の水を分ち、七里余の溝渠を鑿ちて飲水に供す、此末流野火止(ノビドメ)を経て志木(シキ)宿に至り、百余間の筧を架し、内(ウチ)川を渡し、入間郡村々の水田に漑ぐ、民業は農を専務とし、産物は米、麦、蕃薯、及び蔬菜、花卉、多く東京に輸送す。
補【新座郡】
○和名抄郡郷考、爾比久良、
○松山巡覧志、新座村白子宿、立義云、土人はしらくといふ、里老云、武蔵に新羅郡といへる有しが、いつのほどにか絶たり、此辺其しらぎ郡のあとなればしらぎと云しがいつしか転じてしらくと唱へ、文字さへも改りしと云、按に続紀天平宝字二年帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉。四年置帰化新羅一百三十一人於武蔵国。又宝亀十一年武蔵国新羅郡人、沙良真熊等二人、賜姓広岡造。右の如く見えたれど、はやくより廃れたるにや、民部式に載たる郡名の内に見えず、其後の和名抄拾芥抄等にも不見。
志楽郷(シラギ)
和名抄、新座郡志木郷。高山寺本、志末郷。
○今按、志木、志末は共に楽字を草体に書せる者、末に近似し、木に近似するを以て、魯魚焉馬の誤を招ける也。即今の膝折村新倉村、白子村の辺にて、豊島郡に近接する方ならん。
新風土記云、志木郷は五音の相通なれば、シラキと云ふを、中略してシキとせるならん、此説牽合に似たれど、そのかみ郡内多くは未開の地なれば、其所在は実に白子宿の辺なるべし。
補【志木郷】
新座郡○和名抄郡郷考、志木、今按、志木は志羅木なりしを二字にしたるか、郡名の新座も新羅の転り、新羅郡の事上に続紀を引て云り、又持統紀元年夏四月筑築太宰献投化新羅僧百姓男女二十二人、居于武蔵国、賦田受稟、使生業。続紀天平宝字四年四月置帰化新羅一百三十一人於武蔵国とありて、郷名も郡名も是より出たるなるべし、又宝亀十一年五月武蔵国新羅人沙良真熊等二人云々ともあり、
○行囊抄、江戸板橋の出口より川越城下に赴く道に四楽、根利間より二里、或は白子とも云、四とある四楽はシラクまた白子とも云はシラコにてシラクもシラコも皆シラキの転訛なり。
白子(シラコ)
今白子村と云ふ、新座郡の東界にあたり、豊島郡赤塚村と一溝(矢(ヤ)川と名づく)を以て相隔つ。板橋駅へ二里、川越へ六里、北方荒川の岸を去る一里許、小駅家とす。
行囊抄云、江戸より川越に赴く道に、四楽(シラク)村あり、白子(シラコ)とも云ふ、共に新羅(シラキ)の転なり。
(吹上観音堂)
新記云、吹上(フキアゲ)観音堂(白子駅の北半里にあたり、下新座と云ふ)は境内六十間四方、本堂八間、東向の精舎なり、元亀二年鋳造の鰐口あり、祭日には遠近の男女群集市をなせり、是を吹上の市といへり、縁起に載る所は、天平年中、行基巡化ありし時、土地の形仏法繁栄の相ありとて、天竺の椋の木にて高八寸の観音の立像を彫刻し、赤池の側に一宇を建て安置せり、後多くの年歴を経、普明国師東明寺を開基し別当とせしとぞ、今の本堂は近年の再興なり、此堂前より荒川の左右を望むに、青山に眼を遮り、帆舟木の間をすぐるさま、頗佳景の地也、小田原北条の時代は、此村代々実に守護地頭不入の地たるよし、其頃の文書に見えたり、今は駅家ありて、人家簷を並べたり。○白子駅南の小寺の境内、一樫樹あり、その皮肉の間に挿入する所の石器ありて、四五寸許を露出す、石器は謂ゆる石棒の類とす。
補【白子】
〇人類学会報告、白子村福寺の石棒は本堂に向ひて左の方丘の山樫の洞に在り、木質成長して棒を覆ひしが故に充分に形状を見、寸尺を測ること能はざれども用石は常の如く縁盤にして、上方の珠は高さ二寸直径二寸、木より顕はれ出でたる胴の長四寸七分あり、此石器を掘り出せるもの、に木に挟みたるが終に取れざる様になりしなるべし。
小榑(ヲグレ)
今橋戸(ハシト)に合し、榑橋(クレハシ)村と改む、白子の西隣也。
(橋戸)
○新記云、橋戸村は天正十九年、伊賀組へ賜りしより、今も伊賀組の給地なり、江戸を隔ること四里半、土人は上白子村の一名を橋戸村とも心得たり、村民忠右衛門が所蔵の北条家の文書にも、白子上郷の名をば載せたり、教学院、境内除地一町四方、古碑五基あり、その内二基は文字滅して見わけがたし、三基に刻する文字は文永八年、文和五年二月、嘉吉三年八月逆修祐厳とあり。
矢川(ヤ)
白子川とも呼ぶ。
○新記云、白子川、小樽村と豊島郡土支田村との界、井頭池より出て、郡界を流れ、下流は荒川に入る、水路凡一里半余、川幅二間より四五間に至れり、下流新倉村、成増村、赤塚村の辺にては矢川と呼ぶ、此川豊島郡赤塚郷中の用水に引注ぐ。
新倉(ニヒクラ)
今新倉村と云ふは、上新倉にして、下新倉は白子へ併入す、吹上観音堂(下新倉)の西に迫り、膝折村根岸の東とす。
水月古鑑日、武蔵国新倉郷七百貫事、右可領知、亡父蔵人依忠節、本領永不可有相違、仍執達如件、文保元二月十八日、吉良亀松殿、源朝臣。
新記云、新座村は新座郡の根本の郷なりと、新羅王の居跡なりとて、牛房山の上にわづかの平地あり、又当村に山田、上原、大熊など氏とせる農民ありて、祖先は新羅王に従ひ来れりと云ふ、されば此山名ももと新羅王の居跡より起りたる事なれば、御房山など書くべきを、何時の頃よりか牛房の字にかへしならんと、是も村老の説なり[3]、国史、「持統紀元年四月、筑紫大宰、献投化新羅僧尼及百姓男女二十二人、居于武蔵国、賦受、使安生業」といひ、又四年二月、帰化新羅人、韓奈末許満等十二人を、この国に置かれしことあれば、この居蹟と云ふは、もしくはこれらの人をりしにや、されど外に拠もなければ詳なるを知らず、又此村に朮(ウケラ)庵といふ草堂あり、土人の伝へに、此辺は武蔵野の内にても、別きて其名をウケラ野とて、花の多く出せし所なれば、古きを失はじとて、かく庵の名とせりと、覚束なき説也、万葉集東歌の武蔵国歌九首の中にも、「こひしけば袖もふらむを武蔵野のうけらが花の色にづなゆめ」是等の事を以て、かかる名の起りしなるべけれど、古き事にはあらざるべし、されば此求朮など云へるも、近き世の唱なるべし。
膝折(ヒザヲリ)
今膝折村と云ひ、白子の西一里にして、川越路にあたる。其北なる溝沼、根岸、台、岡なども今皆併入す。村西に黒目(クロメ)川てふ小溝あり、北流して、新河岸(シンカシ)川(内川)へ入る。
新記云、膝折宿は新座郡の中央に在り、江戸より行程五里半に余り、此地の開闢は、土人の伝へに曰く、高麗郡高麗の城陥りし時、主将某は敵のために討れ畢ぬ、家臣五人遁れ出て、落人となり此地へ来れり、其頃はた原野なりしを、かの五人の者力を合せて、遂に家を造り住居の地とせり、今その子孫わかれて数軒となるも、其中に主たる者の家、長く亡びを敷き、自冒して高麗家号とせるものあり、高麗氏は高麗郡新堀村聖天院に葬りて、今に墓石のこれりと、按ずるに、聖天院に高麗王の墓あれど、その事歴さだかならず、物産脚籠あり、椀を盛る籠にして、下に跗をつくりつけたるものなれば、脚籠と云べきを、土人カツケと唱ふるものは、語路のたよりに従へるなるべし、夫れも古き事と見えて、回国雑記「ひざをりと云へる里に市侍り、しばらく仮屋に休みて、例の俳諧を詠じて、同行に語り侍る、商人はいかで立らん膝折の市にカツケを売るにぞありける」之によれば、脚籠をひさぐも久しき業なり、其市は今廃して、毎年十二月十四日には、地蔵市と号し、人々群集するのみ。
東園寺(トウヲン)
膝折の北、黒目川内間木(ウチマキ)に臨める岡上にあり。
○新記云、東園寺は其開基の事伝はらず、往古は今の地より東の方、不動坂の西に当り、十二間四面の薬師堂あり、左右に五ヶ所の別当寺を置き、輪番に勤めしが、後故ありて中絶す、寛弘年中に至り、法印永慶と云ふ僧、其廃したるを起したるなりと、境内古碑五基あり、其一文永五年卯月十一日と刻す、此観音堂は広沢池の辺、少しく高き処にあり、故に広沢観音(ヒロサハ)と云へり。
(代山)
膝折村の大字台(ダイ)にも、古碑散在す、中にも民家の後なる堂山と呼ぶ藪の中に、十数基ありて、正安三年辛丑、文保二年、永仁三年、弘安二年、応永二十五年、延徳三年など、銘の見ゆるあり、台村は永禄役帳に代山(ダイヤマ)と云ふにあたる。
岡村(ヲカムラ)
今膝折村へ合せ、其大字と為る。新記云、岡村の古城跡は、広四五町に二三町もあるべし、今も土居のあとあり、本丸と覚しき所を指して二条と云、西の方へ下る坂を尾崎と云、相伝ふ、此城昔太田道灌の持なりと、他に所見なし、永祿の頃此近郷は太田新六郎康資が知行と云へば、もしくは康資が館などにや、今は雑木繁茂し、林間より田島、溝沼、内間木の数村を眼下に見下し、眺望頗佳なり。
根岸(ネギシ)
今膝折村へ合せ、其大字と為る。新記云、根岸根岸村は新倉郡広沢荘に属し、川越街道の北にあり、古へは同村、溝沼村、及び当村を通じて一村なりしが、いつの頃か分る、正保及び元祿の絵図にも此名あれば、正保以前より別れて三村となりしと見ゆ。
広沢原(ヒロサハ)
膝折南北にわたれる広野の名にして、黒目(クロメ)川をば古名広沢といへるごとし、此水は多摩郡前沢(今久留米と改む)に発し、北流三里許、内川と共に荒川へ入る。
○新記云、広沢野は新座郡の中央にはびこれり、膝折村の北に広沢池あり、故に此名あり、訛りてひらさはとも唱へ故、今或は平沢と記す者もあり、昔は限りなき曠野なりしかど、今は土地開けて原も蹙まりしと云ふ、されど猶長短をひとしくする時は、一里四方もあるべし、白子、新倉、片山膝折の村々その境をめぐれり。
(広沢)
史学雑誌云、広沢庄は東は白子、榑橋より、西は館村、南は片山に至り、北は柳瀬川に臨む、大約新座郡の八分を占め、広沢原の名、今も其曠野に存す、小田原役帳に「江戸広沢三箇村、百六十七貫文、太田新六郎一とある是也、又同書に「広沢内、根岸、代山、源七郎分、二十貫文、新六郎寄子」とあるは、今も荘内に根岸と台の小村名存す、然るに新風土記に、府内の下谷坂本町辺を広沢に擬し、正洞院に広沢山の山号ある事と、江戸長祿図に金杉下谷の傍、広沢の村名を載する事を引証ど、正洞院は常陸国久慈郡沢山耕雲寺の末なれば、慶長年中創建の時、広沢とせるのみ、長祿図は偽作、何かあらん。
黒目川(クロメ)
又久留米(クルメ)川に作る、北多摩郡田無(タナシ)町の辺なる野水の末にして、東北流し、本郡片山村に入り、膝折と野火止新田の間を貫き、根岸台の下に至り、新河岸川に入る。
○新記云、黒目川、水上は多摩郡柳窪村にて、所々の清水あつまり、本郡片山郷栗原村へながれいる、此辺をすべて黒目里と云ふ、故に此名あり、或は久留米川とも書き、又来目川とも記す、川幅或は二三間、或は五六間あり、末流に至りては十余間に至る、その中根岸河岸より下は、川幅もことに広く、舟の往来絶えず、新河岸川に落合ひ、荒川に会湊す。
片山(カタヤマ)
広沢原の西なる郷名なりしが、今村名に転じ、属村は其大字と為る。
片山は郷名に呼び、十村、此地は江戸より行程四里にして、隣郡多摩郡の地にも少しく跨り、郷中東南はすべて土地高く、西北に向ひ崖あり、崖下の耕地よりみれば片山と名付しも、自然地のさまによれる事と知らる、東は広沢原より南の方へかけて、小樽、保谷等の数村にさかひ、多摩郡神山郷に隣り、本郡にかりては野火留宿の地に接す、北は膝折宿に至る、昔松平信綱(伊豆守)家人安松金右衛門に命じて、多摩川の水を引きける時、此郷中よりも人夫を出してたすけなば、長く養水の便をも得て、互の利とならんとさとせを、頑愚の土民等うけがはざりしかば、今に至りても此郷へ引く事を得ず、土人の後悔大方ならずと云ふ。
栗原(クリハラ)
今片山村の大字とす、八幡山満行寺あり、之を野寺の古蹟とも云ふ。
(野寺)
○文明十八年回国雑記云、野寺と云へる所、こ、にも侍り、是も鐘の名所なりと いふ、此鐘古への国の乱によりて、土のそこにうづみけるとなん、其ま、ほりいださりければ、「おとに聞く野寺を問へば跡ふりてこたふる鐘もなき夕哉」。○新記云、満行寺は八幡山の崖下に在り、弥陀院滝本坊とす、開山開基ともに詳ならざれど、古き蘭若にて、古歌に武蔵野の野寺の鐘などとよめりしは、此寺のことなりと寺伝に言へり、昔は当寺、今の十二天村に在り、その比は七堂伽藍甍をつらね、鎮守正八幡以下三十余座の末社及び三百所の坊中、僧侶充満して、念誦の声断ざりしとぞ、それより遙の星霜を経て、戦争の街となりしにより、さしも盛なりし梵檀も衰へし後、今の地へ移れりと、其移りし時代詳ならず。又、片山郷の妙音沢は、一名大沢と云ふ、山の根より湧出せ水、湲として沢中の雑草を洗ひ、いと清冷なり、石菖多く生ず、上に小竹生茂りて幽邃の地なり、弁財天祠あり。
法台寺(ホフダイ)
新記云、片山郷辻村に在り、古は時宗の道場にして、遊行二世他阿真教上人の開基なと云ひ、中興開山は普光観智国師なり、国師は天文十三年、当国多磨郡由木村にて生る、俗姓は平山武者所季重の後胤、由木左衛門尉利重の次男なり、十歳の時当寺に入て、蓮阿上人の弟子となる、此頃迄は遊行派なりしが、国師十八歳の時、浄土宗江戸増上寺感誉和尚の弟子となり、後増上寺十二世の住持にうつり、元和六年示寂せり、古碑十三、鐘楼の後に在り、歴代和尚中興以後の墳墓よりは南にあたり、十三基ともに、中に名号六字を大に刻し、左右に年暦を記せり、その碑東に向ひて立てるもの六基、各高さ六尺幅一尺二寸あり、正和より明徳の間の銘字あり、中にも「建武四年丁丑三月十七日、見阿弥陀仏」とあるは、延元二年にあたれり。
内間木(ウチマキ)
今内間木村と云ひ、内(ウチ)川の西岸なる浜崎、田島、宮戸をも併す。膝折村の北、内川と荒川との間なる島洲に似たる地に居り、西北は僅に宗岡(ムネヲカ)村に接続す。
(内川)
内川とは荒川に対したる名なるべく、(近世川越の航路を開かれしより、専新河岸(シンカシ)川と呼ばる)内間木と云ふは内牧にて、河川以内の牧野りし故か。
羽禰蔵(ハネクラ)
内間木より足立郡笹目村へゆる渡津を、今地蔵河岸と云ふ、正保図には羽根倉の渡と標示す。〔新記]されば古文書に、羽禰蔵とあるも此なるか、埼玉郡鬼窪、及び入間郡新堀の条を参考すべし。
浜崎(ハマサキ)
今内間木村の大字とす。文明年中、道興准后武浜崎蔵野にわけ入り、大塚十王院(南畑)に寄寓し大石信濃守が館などにも招かれしが、此浜崎にも遊びたり。即回国雑記に「武蔵野の末に、浜崎といへる里侍り、かしこにまかりて、
むさし野をわけつつ行けば浜崎の里とはきけど立つ波もなし、
此程長々住み馴れ侍りける旅宿を立ちて、甲州へ赴き」云々。新記云、入間郡滝入村、桂林寺の観音堂鰐口に「奉掛氷川之大明神御宝前之鰐口、武州新座之郡、広沢之郷、浜崎之宮、福徳二年辛亥、九月吉日、願主太夫三郎敬白」と銘せり、福徳は逸年号にして、何れの朝のなるや詳ならず。
志木(シギ)
今志木町と云ふ、人口三千、旧称館(タテ)村また引又(ヒキマタ)町と云へり、明治の初年に志木宿と改し、尋いで志木町と為す。志木とは和名抄に志楽郷を志木郷に謬れるに困り、近世説を為して、志木は志良木の中略なりなど云ひ出て、遂に志木の名称を転借したるなり。
(引又)
野火止の北一里、柳瀬川の新河岸川へ会する東南岸に在り。航路より云へば、東下一里半にして荒川に入り、更に一里半にして戸田渡に達し、猶五里にして隅田川に達す、又北上二里半にして、川越新河岸に至る。
館村(タテムラ)
新記云、館村は新座郡の西北の隅にありて、新河岸川を帯び、其対岸は入間郡宗岡村なり、引町と云ふは、村の東の方なり、町家数凡百軒許、昔より三八の日当町にて市を立て、穀類及び諸品を交易し、近郷の民つどへるを以て、自繁昌の地となれり、伊呂波樋、新河岸川に架して、対岸宗岡村に至る、引橋の並にて西の方にあり、長百二十六間、幅は二尺余、四方所々にて継合す、其数四十八ありて、国字母の数と同きゆゑ此名起れり、又南の岸に埋樋あり、長九十六間、幅は覚と同じ、中央に高桝二つを設く、これは水をたたへて激流とし、高きにのぼらしむるの巧なり、この埋麺と覚とを合せては、二百二十二間一尺あり、農時には水をせきかけて、宗岡村の水田へそそぐ、元禄年中、松平美濃守の川越城主たる時、新河岸川へ落ちし用水余流を、樋に入れてかく作らる、古館は今の長勝院の東の方にありて、同寺の境内へも少くかかり、今は畑となりしかど、虚堀のあと、土手の状など、わづかに残れり、昔大石越後守ここに居れり、此人は小田原北条家の家人なりしが、天正十八年滅亡せりとぞ。
○引又の館は、大石氏の居れる所にて、回国雑記に、此館の事詳に伏したれど、其始末を明にせず。此館の地名、彼記にも明に載せなど、道興准后が難波田の大塚十王院に寄寓したる時、頻に往来したる館は、此引又の外にはあらじと知らるるに非ずや、文明十八年の冬より、翌春までの事とす。
- 或時大石信濃守といへる武士の館にゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閣あり、矢倉などを相兼て侍りけるにや、遠景すぐれて、数千里の江山、眼の前に尽きぬとおもほゆ、あじ盃を取出して、暮すぐるまで遊覧しけるに、
- 一閑乗興屢登楼、遠近江山分幾刻、落雁叫霜風颯々、白沙翠竹斜陽幽、
- 野遊の序に、大石信濃守が館へ招引し侍りて、
など興行にて、夜に入りければ、二十首の歌すすめける、(中略)信濃守父の三十三回忌とて、様々の追修を致しけるに、小経を花の枝に附けて、贈り侍るとて、
- 散りにしはみそぢみとせの花の春けふこのもとに問ふをまつらん。
大石氏は源左衛門定久、多摩郡滝山城に居りしことは、世に知る所なり、而も信濃守定重が引又館に居ることは、正しき証あるにもあらず。梅花無尽蔵の万秀斎の詩序に、其居亭の風景を叙したるに、離(南)に平野り、艮(東北)に湖水ありと云ふは、引又の地形に合す。滝山には平野湖水の景致の近邇する者なければ、本文相合せず。
- 武蔵刺史之幕府、有爪牙之英臣、是日大石定重、迺木曾義仲十葉之雲孫也、武之二十余郡、悉属指呼、忠義貫日、終始一節、規勝地於武、頗設塁壁之備、邇来築亭子、其兌掛而富士千秋之積雪、震掛而姻霞渺茫、離之有平野、松原涼度、風動則写自然曲於無絃琴上、艮位則湖水、双村筑波之数峰、于朝于幕、快掛趙宋子房着色新意之画図也、開闢取厥佳景、以八為極也、今斯地則不然、一簾捲而十景二十景、尚有余者、所謂万壑争流、千岩競秀、不多譲也、定重就介者、需亭子之名、以万秀命焉、犬臥不驚兆民鼓太平腹則可、
- 了樹東南飛鳥西、江山鐘秀毎看迷、歓声尚在捲簾夕、万戸春耕雨一黎、〔梅花無尽蔵〕
大和田(オホワダ)
今大和田町、人口三千七百、志木の西南にして、黒目川の東なる野中に在り。大和田と膝折との中間を、今野火止(ノビドメ)新田と云ひ、野火止用水之を貫く。大和田は川越街道の小駅にして、白子へ二里、大井へ一里半。
(野火止塚)
新記云、相伝ふ、野火止村は甲斐国より陸奥国への道路なりと、されど野火留の名は、正保の頃には未聞えず、唯大和田宿あるのみ、唯その改定絵図に、野火止塚を載せたり。
○按、此辺を古の甲奥の通路と云ふは、近世八王子より大宮の捷路とすれば、今を以て古を推すに過ぎじ而も古書に其徴拠あるにもあらず。野火止塚は、今の平林寺山の形状、曠野の中に隆起して、(南北八丁許、東西三丁)塚墓の様子あればか。此辺四十米突の平原に、孤丘十米突許の高さありて、眼界頗潤し。然るに近時、寺内の一丘姪ツクモ塚を特に指して、野火止塚と云ふは疑ふべし、道興准后のいへる塚は、即今の平林寺山に外ならず。
○新記云、野火止塚とは今平林寺の境内に在り、径十間、高五間余、此塚を野火止といへるは、伊勢物語の故事なるが、其文にいはく「昔男ありけり、人のむすめをぬすみて武蔵野へるてゆく程に、ぬすびとなりければ、国の守にからめられにけり、女をば草むらの中にかくし置て逃にけり、道くる人、此野はぬすびとあなりとて、火つけんとすれば女佗て、武蔵野はけふはなやきそ若草の夫もこもれり吾もこもれり、とよむを聞て、女をば取りてともにゐていにけり」と、是はこの地の事なる由いへり、此の説の如く彼物語に拠り、後の世よりいひも習はし物にも記したれど、もとよりあとなき事なり、されど其説の起りしも、又近き世の事とは思はれず、回国雑記にも「この辺りに野火留といへる塚ありけり、けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽にやけとまりけるとなむ、それよりこの塚を野火留と名付けるよし、国の人申侍りければ、若草の妻もこもらぬ冬ざれにやがてもかる、野火留の塚」と、云々、正保の頃の国図にも、原野の内に、此塚突出して立てるさまを載せたり、足は当寺此所に移らざる前の状なり。
北野(キタノ)
今大和田村へ合せ、其大字と為す。
○新記云、北野村は館村の南につづき、東南は野火留宿の地に接し、西は大和田町に隣り、東西十町南北八町、相伝昔は此辺荒野なりしを、寛文の頃、松平伊豆守信綱が時に新墾せり、土俗当村を北野八軒と称す、こは墾田のはじめ、一夫の受る所を一町とさだめ、地の形は七間半に四百八十間と定め、これを経界して八段にわかち、其四段を林とし、残り四段を宅地及び田畑とす、この四段の田畑の内、一段を公田として出す所の米穀を貢税し、余り三段を私田として家産の料に充つされば地の肥麟、年の豊凶を論ぜず、今に土民貢税に苦むことなしとぞ、これ古に所謂助法の遺意なり、今は民家もましけれど、経界の法は古を変ずることなし、薬師堂、北の方にあり、石碑三、一は建武三年と刻し、一は「応永三年正月日、道寿禅門」と彫り、上に阿弥陀の種字あり、一は上の方かけ損じてよむべからず「応四年乙卯」と見ゆ、いづれも村民の庭中より出しと云ふ。
野火止用水(ノビドメ)
玉川上水の分派にして、多摩郡小川村より分れ、東北に向ひ、野火止塚の西を過ぎ、志木町に至り、新河岸川へ入る、長凡六里、水源より算すれば十里許。
新記云、野火止用水は、多摩郡小川村の境より分れて、本郡へ入り、引又町に至る、水色白くして湲たり、昔松平伊豆守信綱、川越城主たりし比、領内なる野火止の荒野を開くとて、家人の水利に精しき者、安松金右衛門に命じ、玉川十六里の間を掘通し、(承応年中の事とす)引又町に至り、水の来るを待つ程に、一年過ぎても来らず、安松が答に、川越領は武蔵野の内にて、土性うるほひなく、風あれば土塵を吹き上るにより、家々席上に紙をのべしきてこれを防ぐ、然るに今年はいつの年よりも沙塵すくなし、又土民等に尋ねしに、諸菜のうるはしき、今年の如きことはなし、想ふに水上程遠くして、俄に水来らずと雖、其土中には既に潤沢を生ぜりと答へ、三年を過ぎて、其年の秋に至つて、大雨の後水声おびたしく、宛然雷の如く響き亘りて、十六里が程を張り、一時に新河岸川へ流れ入しさま、目を驚す許なりしとぞ、これより多磨川水道の七分は江戸へかけられ、三分は川越領新田の養水に賜はり、今に至りて乏しからず。
平林寺(ヘイリン)
大和田町の東南二十町、野火留山の東面に在り、臨済宗、寛文年中、松平伊豆守信綱之を移造す、元埼玉郡岩槻城下にありし古刹とす。
◯新記云、平林寺は境内八六万坪余、金鳳山と号し、臨済宗にて、寺領五十石を賜り、寺の後の方は喬木生ひ茂りて山峰の如し、是を上山と唱ふ、当時はもと埼玉郡平林寺村に在て、ことに古刹なりしが、寛文の初め、石院和尚が住職たりし時、松平伊豆守信綱、当寺を今の地へ移すべきの企ありしかど、それも果さず卒して、同き三年に至り、其子甲斐守輝綱、父の志を継ぎて、やがてこにうつし来り、墓廟も形の如く改葬せり、此より寺領をも改めて、村内西堀にて賜へり、戴渓堂は、正徳年中、深見玄岱建つ、左右の柱にあり「衣冠去国存君父、日月還天耀古今」と題す、立像一尺の観音堂内中央に安ず、独立禅師平生信仰せし像なるよし、上に天竺古先生と扁し、又独立の坐像及び木牌等あり、寺中又増田右衛門尉長盛の墓あり、是は元和元年五月岩槻に葬りしを、更に此に移せる者とす。
余戸郷(アマリ)
和名抄、新座郡余戸郷。
○今詳ならずと雖、白子、新倉の方を志楽の本郷とすれば、大和田、館村などを余戸とすべきがごとし。
清戸(キヨト)
今北多摩郡の管内に入り、清瀬村と云ふ、地形は全く新座郡に属し、片山、大和田の西に密接し、柳瀬川の南辺に居れり。大和田の西南一里、田無(北多摩)へ二里。
新記云、清戸宿は江戸日本橋より行程六里に余り、当宿及び上中下の清戸、正保の頃はなべて清戸と唱へ、多摩郡の中とす、東は新座郡大和田町に隣り、北は柳瀬川に限りて、入間郡坂の下村に及べり、此柳瀬川は多摩入間の郡界なり、用水は柳瀬川を堰入る。
- 右清戸郷士小兵衛、未之年かけおち、服部石見守殿へ御知行、はしとの内居申、被仰付、返可被下候、以上、
- 慶長元年丙申壬七月七日東三五、中島□御奉行様
- 右之分、御書付上り申候、返答書被成、御寄合へ可有御出候、以上、
- 壬七月十七日 本佐(印)大十兵(印)長彦(印)彦小刑(印)伊熊(印)
- 服部石見守殿
柳瀬川(ヤナセ)
又堺(サカヒ)川と云ふ、旧新座郡と入間郡との界線にあたり、又多摩と入間との交堺にもあたれり。水源は武蔵野の中央なる小峰巒、狭山(サヤマ)、村山の中に発し、東流四里、安松に至り稍東北に屈し、新座入間郡堺を為し、二里にして水子に至り、新河岸川に会し、内川と為り、以て荒川に入る、古名久米(クメ)川に同じ。