新羅
新羅(しらぎ)は、古代、朝鮮半島南東部にあり、後に朝鮮半島全域を支配した国家である。新羅郡は、新羅出身の渡来人を武蔵国に置いたことに由来する。
歴史
正確な建国の年代は不明である。『三国史記』「新羅本紀」の記載は伝説的であり、史実と認めるには難がある。中国の『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条に、「新羅が高句麗とともに前秦に朝貢した」という記事が文献上の初出であることから、4世紀末には建国されていたことがわかる。その当時は、北の大国である高句麗に従属する立場だった。また、西の百済・伽耶諸国、海の向こうの倭とは対立していたようである。
智証麻立干は500年に即位し、不定であった国号を正式に新羅とし、王号を麻立干から「王」へと変更した。この後、新羅は国力を拡大し、朝鮮半島は三国時代に入る。その間、中国では隋、唐が建国され、朝鮮半島の諸国は隋・唐に朝貢した。
642年、高句麗で淵蓋蘇文がクーデターを起こして実権を握った。百済では前年に即位した義慈王が新羅に侵攻し、大耶城が陥落するなど、新羅の領土は大きく奪われた。643年には高句麗と百済が和睦を結び、さらに倭国とも連携しようとしたため、新羅は国際的に孤立することとなった。そこで、新羅は唐と結ぶことになる。
660年に唐・新羅連合軍が百済を攻め、滅亡させた。さらに663年の白村江の戦いで、百済の遺臣を支援した倭国軍が敗北し、百済は完全に滅亡した。唐はさらに668年、高句麗を滅亡させる。こうして新羅は勢力を守ったが、朝鮮半島北部には渤海が建国され、高句麗の遺民などが集った。
このあとの統一新羅時代には国力は安定する。日本に新羅郡が置かれたのもこの時代、753年のことだった。しかし、やがて内乱が続く混乱の時代となる。892年に南西部に後百済、901年に北部に後高句麗が建国され、後三国時代に入った。後高句麗の武将によるクーデターで高麗が建国された。
935年、新羅の敬順王が高麗に帰順。これにより新羅は滅亡した。高麗は936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。
国号
当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅(シルラ)」を正式な国号とした。倭では「シンラ」と呼ぶこともあったが、シラキ、シラギと呼ぶようになる。「キ(ギ)」がついた理由は明らかではないが、城=キの可能性もある一方、ギは百済人による蔑称との説もある。