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三田村鳶魚 著『'''[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]'''』の現代語訳 第一章 | 三田村鳶魚 著『'''[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]'''』の現代語訳 第一章 | ||
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==その一 紳書の誤謬== | ==その一 紳書の誤謬== | ||
2026年3月14日 (土) 22:57時点における最新版
三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』の現代語訳 第一章
(現代語訳:シラキのコホリのツカサ)
その一 紳書の誤謬
安松金右衛門といっても知っている者は少ない。その名を知られたのは、彼の事蹟が国定教科書に収録されて小学校の子供らが読み立てるので、ようやく世間に覚えられるようになったが、その人は東京市民が毎日汲んで飲んでいる玉川上水の設計者であるから、実に市民にとって大恩人である。彼の功労に対しては片時も報恩の意を欠いてはならない。それほど大切な安松金右衛門の名も、一向に市民に聞こえてもおらず、その事蹟もほとんど知られていない。しかもその小話が間違っているに至っては、なんとも申しようもないことである。
さしあたって安松金右衛門の伝記について、まず国定教科書の誤謬から正してかかりたいと思う。そもそも安松金右衛門の事蹟が国定教科書に収録されたのは、先年、明治天皇の思し召しによって、宮内省から『幼学綱要[1]』という本を府県の師範学校へあまねく頒賜されました。その『幼学綱要』の中に、安松金右衛門の野火止用水路開削のことが書いてあります。それから四十何年かの後に、国定教科書へ同じ話を収録するようになったことと思われる。
その野火止用水路開削の話は、新井白石の『紳書[2]』によって伝わったように思われます。『紳書』は白石が見聞するままに書いておいたもので、安松金右衛門のことは誰から聞いたのかわかりませんが、こう書いてございます。
- 松平伊豆守信綱の代官に安松金右衛門という者がいる。伊豆守の領分、野火止というところに多摩川の流れを引いたならば開発できる田地があるだろうかどうだろうか、と問われて、いかにもよろしいという旨のことを申し、およそ黄金3000両を費やすことになるでしょうと申し上げた。伊豆守が聞いて、「私がここを領していても、またどこかへ移るかもしれない。私が3000両の黄金を費やして、永くこの地に利益があるとすれば、これも公儀への方向の一つである」ということで、安松に命じて、多摩川の水を引こうとし、16里ほど、溝を掘って、新河岸というところに至った。こうして水流が入るかと待っていると、さらに水が来ないまま1年を経た。伊豆守は安松を召して、「どうして水が入らないのか」と問うと、「きっと水が入るはずです。何についても理由があると思います」という。その理由は何かと問われて、「いまだその理由がわかりません」と答えた。次の年にも水が入らなかった。また安松を召して尋ね問うたが、「それは入るはずのものでありますが、このようになっていることは返す返すも不審です。ただし、この地は武蔵野ですが、およそ川越城下の人、いつも畳の上に渋紙など敷いておき、客が来れば巻いてもてなしています。これは地が乾いて、しかも風が常に吹くため、たちまち座中が塵・ほこりに埋もれてしまうからです。しかし、今年は城下のちり・ほこりが昔のようではなく、ことに武蔵野に植えた畑ものは今年は豊かであるのは今までに覚えのないことです。多摩川からこの溝に流れ入る水を広い野に引いておりますから、未だ流れ来るほどのことがなくても、この水が広野に満ち満ちた後には必ず流れが来るべきものと存じます」と答えた。羽生又右衛門という代官がこのあたりを司っていたので、その後召尋ねられて、「それですが、今年ほど野に植えたいろいろなものが豊かなことは知りません」と申し上げたので、伊豆守はそれ以上言うこともなかった。次の年にも水が来なかった。このとき安松を召して訪ねられたが、前年のように答えたので、「お前が地の高下を明らかにしたかったために水が流れるのに堪えていないのではないか」と言われたが、おどろく気配もなかった。三年目の秋、大雨が降った後に、雷が鳴るような水音が大きくとどろいて、この溝にあふれ満ちて平地をも水が行くうちに、6~7寸ほどある鮎が流れてくることもおびただしい。ただ一時に16里ほどに流れ渡って、新河岸の川に流れ入った。そうして田地も開けて、野火止200石の地がたちまちに2000石の地となった。伊豆守は安松を召して「ここ数年、お前を責めたが、最後まで驚くことなく、重ねて溝を修そうともしなかったことは神妙に思われるな」と、一倍の禄を賜り、350石になされたという。
この本文は刊本の白石全集の『紳書』には見えない。2、3の写本について探しましたが、皆脱落しております。近ごろ森銑三氏から無窮会蔵本の『紳書』一冊は異本というべきものであると教えられまして、辛くも一見しますと、この本文がありました。『紳書』は随筆をほしいままに記録したもので、冊数もどれほどあるものか知られておりません。したがって、伝存するものも揃ったのではなく、残欠しているらしい。どれだけ散佚しましたでしょうか。大田南畝も『紳書』で見たのではないとみえて、この本文を抄出した末に、
- 右は新井白石先生の随筆したものというが、本当だろうか。この文は、『遺老物語』に載っている。
と付記してあります。南畝は『遺老物語[3]』で見たのでしょう。『遺老物語』はその名の如く古老からの聞き書きで、筆者は朝倉景衡なのですが、この朝倉は新井白石の妻女の弟だと聞いている。それで『紳書』もしくは『退私録[4]』の記載と『遺老物語』の中の『老談一言記[5]』――安松のこともこの『老談一言記』にあるのですが――『老談一言記』の記載とは、話が同じであるのみならず、文章も少々文字に出入りがあるだけで同文と申してよろしいようなのがたくさんある。それゆえに、白石は朝倉景衡から聞いて書いたようにも思われる。というのは、『遺老物語』には本多正信の一族の本多加信という人がありまして、その人の話を多く書いてある。加信は正信の相談相手であったといいますから、慶長・元和の遺老で長命な人でもあり、一生どこへも仕えず、晩年は屋敷住まいではなく、気楽に市街地で暮らされた。そこでだれかれが加信老人の今昔談を聞きに出かけたらしい。あの『松永道斎聞書』[6]も加信老人の話を書いたものなのですが、それの下巻にある35話のうち、28話までが朝倉景衡の『遺老物語』にも書いてある。そこから見て、安松のことは、加信老人が古い話の外に、新しい方の話として、景衡に聞かせたのではあるまいかと思われる。そうした臆測は余計なことのようでもあるが、安松の業績を伝えた野火止用水路開削の話はどこから何として出てきたかを吟味する必要がある。『紳書』にしても、『遺老物語』にしても、当事者から聞いたのでもなく、当時の記録によったのでもない以上は、事蹟を正しく伝えがたい。間違いも生じやすいわけである。今日、松平伊豆守信綱の子孫である子爵・大河内正敏家に、資料とすべき何ものもない。今日ないのではない。昔からないのである。安松金右衛門の相続人の手には、系図さえないほどであるから仕方もない。ただし、この方は、昔から何もないのか否か、それはわからない。
- 吉田侯(今の松平伊豆守信順、寺社奉行)の家に、祖先信綱執政のとき、御機密の日記数冊あり、子孫といえども見ることができず、代々直封で、この侯家に収められている。侯家でも格別大切なものであるから火災をはばかり、箱崎の別邸は河辺で火が遠いところだからといってこれをおさめる小倉を建てて入れておいたが、この3月21日の災にこの庫にも火が入って、その旧記が失われてしまったのは惜しむべきことではないか。また聞くところ、この庫、守る人がいたが、火災のとき、己の私財を庫の中に収めていたものも焼亡したという。これも、ものには数があって、尽きるときが来たらどうしようもない。
- また聞いたことだが、伊豆守の家臣の某が嘆息して言うには、この秘冊は家の世襲の宝であるが、子々孫々見ることもできないのであれば、焼けてなくなったのも時が来たのであり、惜しむものでもないという。まことにそういうものかもしれない。
これは平戸侯松浦静山の書かれた『甲子夜話続編』[7]の記載で、文政十二年の火災に三州〔三河〕吉田の殿様であった信綱の後人・伊豆守信順の別邸が焼けて、倉庫に秘め置いていた仙台の記録が灰燼になってしまったというのであるが、同書はそれに続けて『武功雑記』[8](平戸藩祖松浦鎮信の書かれたもの)の中から抄出して、
- 松平伊豆守殿死去前3日、子息たちへ申されるには、「それがし、大猷院(家光)幕下の厚恩をこうむったこと、たとえることもできない。御意安く思し召し上げられ、御自筆で御用のことを仰せ下された御書が幾多ある。これを残しておけば子孫の末々までも珍宝ということができよう。しかし、思慮をめぐらせれば、もし後世にいたってよそへ散乱して、御書の趣に評価を加え、難ずるようなことがあれば、これはそれがしが残しておいたゆえに起こって、まことに大きな不忠、冥加に尽きる(神仏に見放される)ことであるから、御書を火中に入れて焼いて灰とし、袋に入れてそれがしの死骸の頭にかけて埋めるように」というのが遺言であった。これによって、豆州(伊豆守)死後、甲州侯(嗣子 甲斐守輝綱)弟たちがあるところでこの御書を薬缶に入れて火で焼き、おのおの一目でもみないように頭を振って敬って灰とし、その灰を袋に入れて、豆州の死骸の首にかけさせて葬られたとのこと。右前記した吉田侯古冊の中でもまた秘密のものであるのだろう。
とある。信綱が遺言して機密文書を処分したことは、『翁草』[9]にも『永夜茗談』[10]を抜粋してあります。
- 松平伊豆守臨終の時、公方家御自筆のもの、残らず大きな桶に水を入れ、よく浸して、そこで火に焼き、右の灰を袋に入れ、首にかけて終わらせたという。
そうすると、信綱の亡くなった寛文二年三月十六日に、早くすでに一部の書類は焼いてしまっていた。それでも家光自筆以外の機密書類は残っていたが、一切見ることを許さなかった。見せないということはよく遂行されたと見えて、寛延元年に吉田藩士奥村保之の編著した『事語継志録』[11]を見ても、多くは道聴塗説(聞きかじった知識を理解していないまま、他人に受け売りすること)を採ったもので、中には甚だしい間違いさえ麗々しく書き立ててある。そうして、逸しがたい玉川上水開削のことや、武蔵野墾拓のことは全く書いていない。もし残存する書類を多少とも参照するならば、あれほどあやしいものができることはなかっただろう。けれどもその家の禁制によって、古記旧冊は見せないといえば、当然、『事語継志録』のようなものも出てくることになる。『松平豆州言行録』[12]というものもありますが、これとても『事語継志録』と同様なもので、往々信じがたいところがある。あれほど名高い松平信綱に、ほとんど安心して読める伝記がないということも意外なことではありますが、臨終の心がけからいえば、むしろ自分の働いた跡形などの残らないのを望んだのでしょう。しかし、その心がけが史上の欠落となって、松平信綱に関係する大小の事柄というものがすべて知られないものが多くなる。
さて野火止用水、野火止はただ今では埼玉県入間郡[13]大和田町の一字になっておりますが、寛永十六年正月、信綱が川越城主6万石に封ぜられたころの野火止は、新座郡であった。ついで正保四年7月、常陸国新治郡・武蔵国埼玉郡の両郡の中で1万5000石加増され、7万5000石の大名になったのであるが、この5000石は特に願って無高の地、すなわち未墾の原野を拝領したという。そうであればこのころすでに武蔵野開墾の腹案があったのであろう。藩翰譜には川越侯の石高を7万石と書いてあるのも、5000石というものは未墾の土地であるから本高へ加えなかったのであろう。川越侯の代官・小幡助右衛門が1万石開発の案を立てたというのもこの頃のことであろうが、『野火止宿開発根本之覚書』には、
- 武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳年に始まり、当酉の年まで52年になります。美濃守様(柳沢吉保)御拝領以後、新座と号す。いにしえ伊豆守様(松平信綱)が新田に御取り立てあそばされた。
とある。ここに承応元年巳年というのは間違いであろう。元年(1652年)は壬辰、二年(1653年)は癸巳、巳年ならば2年でなければならない。川越の旧家榎本氏に伝わる祖先の書いた榎本弥五右衛門[14]『万之覚』にも、
- 武蔵野火留新田、同巳の春中より同8月中まで、54~55間の家ができました。家1間に金2両米1俵ずつ、御貸を成らされますと承りました。但 伊豆守様より。
こうある。これはたしかに承応2年のところに書いてある。このとき、川越侯は新たに農民を野火止に移して、費用を貸して開墾させ始めた。それも人里遠い未墾原野でなく、在来の村落に近い野火止から武蔵野開発を始めたのである。野火止には今日にも水田がない。すぐ隣の大和田には水田がある。それは梁瀬川の水で十分灌漑に足りる。けれども野火止にはまったく灌漑すべき水がないのであった。それで畑ばかりの集落なのである。野火止は灌漑用水がないのみならず、飲料水にも事欠いた。井戸がない。井戸を掘っても水が容易に得られないのは当所に限ったことではなく、武蔵野一帯のことではあるが、新墾によって農村を取り立てようとするのに、住民の飲料水がなくては、いかんともしがたい。人間にこれほどの差し支えはない。武蔵野開発の成否はまったく、飲料水供給の一途にかかることだ。
明暦元年3月、ついに野火止用水路が開通した。これは灌漑用として与えられたのではなく、野火止村の飲料水として玉川上水を分けたもので、玉川上水の分水口は30あまりもあるが、その一番早いのは野火止への分水であって、明暦の時期にはまだ他の分水はなかった。
注釈
- ↑ 『幼学綱要(ようがくこうよう)』:明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書(倫理教科書)。明治天皇の侍講(教育係)であった儒学者の元田永孚(もとだ ながざね)が中心となって編纂し、明治十五年(1882年)に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例(逸話)を引用して解説している。
- ↑ 『紳書(しんしょ)』:江戸中期の儒学者、新井白石(あらい はくせき)が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。
- ↑ 『遺老物語(いろうものがたり)』:江戸時代に編纂された戦国時代から江戸初期にかけての逸話・伝承を集めた軍記・説話集。享保十八年(1733年)、日下部(朝倉)景衡(くさかべ かげひら)によって編纂された。全20巻。戦国武将の言動や合戦の様子、当時の社会情勢などが、古老からの聞き書きや諸家の記録をもとに記されている。
- ↑ 『退私録(たいしろく)』:江戸時代中期の政治家・儒学者である新井白石(あらい はくせき)による随筆・記録集。全三巻+付録。
- ↑ 『老談一言記(ろうだんいちごんき)』:江戸時代中期に編纂された戦国時代から江戸初期の逸話集。新井白石・編、朝倉景衡・記。主に戦国武将や江戸初期の人物に関する逸話、古老からの聞き書きを収める。『遺老物語』の一部として扱われる。
- ↑ 『松永道斎聞書(まつながどうさいききがき)』:江戸時代初期の医師・儒学者である松永道斎(松永昌三)が、戦国時代の逸話や古老の話を記録した書物。
- ↑ 『甲子夜話続編(かっしやわ ぞくへん)』:江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山(まつら せいざん)による膨大な随筆集『甲子夜話』の続きにあたる部分。『甲子夜話』(正編)100巻に加え、この『続編』も100巻、さらに『三編』78巻。
- ↑ 『武功雑記(ぶこうざつき)』:江戸時代前期に成立した、戦国時代から江戸初期にかけての軍事・武家社会の逸話集。松浦鎮信著。
- ↑ 『翁草(おきなぐさ)』:江戸時代後期に編纂された、日本最大級の随筆集。京都の町奉行所に勤める与力、神沢杜口(かんざわ とこう)著。本編200巻。役所の記録や古老の聞き書きを丹念に集め、先行資料を引用しつつ、独自の視点で整理している。
- ↑ 『永夜茗談(えいやめいだん)』:江戸時代中期に成立した、戦国から江戸初期の逸話集。源長親(通称 三上長親)著、成立は17世紀末~18世紀初頭。主に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑や、その周辺の武将たちの功名話、機転の利いた逸話を収めている。
- ↑ 『事語継志録(じごけいしろく)』:松平伊豆守信綱の言行録。著者・奥村保之(おくむら やすゆき)は、信綱の5代後の子孫にあたる三河吉田藩主・松平信礼(のぶのり)の教育係を務めた。主君である信礼に、信綱の優れた言行を学ばせ、藩主としての心構え(輔導)の一助とするため、信綱の政治的な判断や日常生活の逸話、教訓などをまとめたもの。
- ↑ 『松平豆州言行録(まつだいらずしゅうげんこうろく)』:別名『知恵伊豆公言行録』。松平伊豆守信綱の逸話や訓戒をまとめた書物。
- ↑ この当時、大和田町は入間郡ではなく北足立郡に属しており、誤りである。
- ↑ 榎本弥左衛門の誤り。榎本弥左衛門忠重は武蔵国川越の商人である。寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。
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