「一乗院」の版間の差分
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文和年間(1352年~56年)ごろからの板碑が多数出土しており、南北朝時代の創建と考えられている。 | 文和年間(1352年~56年)ごろからの板碑が多数出土しており、南北朝時代の創建と考えられている。 | ||
享保十四年(1729年)4月には豊島郡石神井村三寶寺の末となった。 | |||
なお、北西に[[閻魔寺]] | なお、北西に[[閻魔寺]]がある。これは、[[持明院]]持ちのお堂であったが、持明院が明治時代の廃仏毀釈でなくなってしまった後、一乗院の管轄となったものである。 | ||
明治七年(1874年)5月30日、一乗院を仮校舎として膝折学校が開校する。明治十九年、知新学院と改称、明治二十二年に膝折小学校と改称された。明治三十六年(1903年)に新校舎ができて移転したが、これが朝霞市立朝霞第一小学校の前身である。{{Quotation|一乗院略縁起<br /> | 明治七年(1874年)5月30日、一乗院を仮校舎として膝折学校が開校する。明治十九年、知新学院と改称、明治二十二年に膝折小学校と改称された。明治三十六年(1903年)に新校舎ができて移転したが、これが朝霞市立朝霞第一小学校の前身である。{{Quotation|一乗院略縁起<br /> | ||
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昭和六十二年三月彼岸 第三十二世 秀弘 敬白|境内の説明板より}}{{Quotation|'''一乗院'''<br /> | 昭和六十二年三月彼岸 第三十二世 秀弘 敬白|境内の説明板より}}{{Quotation|'''一乗院'''<br /> | ||
除地2畝5歩。宿の中、北側にある。真言宗新義豊島郡石神井村三寶寺末、並流山観音寺(一名・平等寺)と号する。本堂7間に5間。本尊十一面観音を安置する。開山の年歴等をすべて伝わらず。ただ口碑に伝えるには、この村は開闢のころ、高麗氏の開基であるという。三寶寺末山となったのは宝暦六年(1754年)12月12日、住僧・宥巌法印の時であるとする<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/13217233/1/349 『朝霞市史 通史編』]では、「このうち、石神井三宝寺の末寺になったのを、表暦六(一七二九)年十二月十二日としているのは誤りで、すでにこれより遥かに早く末寺になっていることは、三宝寺所蔵享保十四(一七二九)年四月の「末寺名簿帳」によって明らかである(『三宝寺誌』所収)。その創建が高麗氏と係わって高麗氏が開基になっているというのは事実を伝えているものと思われる。」と記されている。</ref>。<br /> | |||
'''稲荷社''':本堂の前にある<br /> | '''稲荷社''':本堂の前にある<br /> | ||
'''古碑''' | '''古碑''':これも本堂の前にある。元弘の2字がほのかに見える<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/13217233/1/349 『朝霞市史 通史編』]では、「『新編武蔵風土記稿』一乗院の条で、(中略)「元弘」年中の板碑があったことを記しているが、これは誤りと見るのが適切であろう。若しこの記述が間違いないものとすれば、恐らく持明院関係のものと見なければならないものがある。」と記されている。</ref>。そのほかは滅して、よむことができない。|新編武蔵風土記稿 新座郡巻四 膝折宿 附持添新田}} | ||
== 一乗院の板石塔婆 == | == 一乗院の板石塔婆 == | ||
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* [http://ichijouin.com/ 真言宗智山派 並流山 一乗院平等寺] | * [http://ichijouin.com/ 真言宗智山派 並流山 一乗院平等寺] | ||
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[[ファイル:一乗院本殿.jpg]] | [[ファイル:一乗院本殿.jpg]] | ||
[[Category:寺院|いちしよういん]] | [[Category:寺院|いちしよういん]] | ||
2025年12月7日 (日) 21:56時点における最新版
一乗院(真言宗 智山派/並流山一乗院平等寺)は、旧・膝折宿、埼玉県朝霞市膝折町1-16-17にある寺院である。正式名称は並流山一乗院平等寺だが、「膝折の一乗院」と呼ばれている。門の額には「平等密寺」(密は小さく)と書かれている。本尊は十一面観世音菩薩である。真言宗智山派。
武蔵国高麗郡の戦乱から逃れてきた高麗氏の家臣五名が膝折に逃れ、高麗家を名乗った。その一族が建てたのがこの一乗院であるという。ただし、当初は「観音寺」と称したと言い伝えられている。
文和年間(1352年~56年)ごろからの板碑が多数出土しており、南北朝時代の創建と考えられている。
享保十四年(1729年)4月には豊島郡石神井村三寶寺の末となった。
なお、北西に閻魔寺がある。これは、持明院持ちのお堂であったが、持明院が明治時代の廃仏毀釈でなくなってしまった後、一乗院の管轄となったものである。
明治七年(1874年)5月30日、一乗院を仮校舎として膝折学校が開校する。明治十九年、知新学院と改称、明治二十二年に膝折小学校と改称された。明治三十六年(1903年)に新校舎ができて移転したが、これが朝霞市立朝霞第一小学校の前身である。
一乗院略縁起
当山は山号を並流山、院号を一乗院、字号を平等寺と称する。弘法大師空海上人によって平安時代に立教開宗された真言密教の法燈を斟み、京都東山の智積院を総本山とし、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の三大本山と、全国三千ヶ寺に及ぶ寺院を持って組織される真言宗智山派に属する寺院である。ご本尊様は、十一面観世音菩薩で、御顔が十一の面からなり、あらゆる方向に顔を向けて苦しむ衆生を見逃すことなく救ってくれるという誓願を戴く仏様である。
昭和六十二年三月彼岸 第三十二世 秀弘 敬白 — 境内の説明板より
門闢は寺伝によると「古来人ニ依ッテ成ル」とされ「七一六年(霊亀二年)駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ七国ノ高麗人、一、七九九人が武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣五人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ五人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家號トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後世ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル十一面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス」というのが起源とされ当時は観音寺と呼ばれていた。
その後星移り物替って南北朝時代の初期に宇治の尊師に依って間口七間奥行五間の本堂が建立された。〔現在の寺域よりも東北百米の地で板碑百四十基が点在した場所、因に板碑は、一三五〇年(元和三年)より一四八〇年(文明十二年)が現存〕序で本堂前に稲荷社を配し右手に地蔵堂、左手に大日堂が安置された。更に西に持明院を有し、その奥手に阿弥陀堂(現在の閻魔堂)が建立された。安政年間(一八一七年頃)に二度に亙って火災に遭遇し客殿、大日堂等を焼失する。現在の山容は大戦後照與(中興)に依って定まれる。
夕ぐれに いちじょういんの 鐘の音が
佛のめぐみしみじみときく 照與作
(一乗院詠歌より)
一乗院の板石塔婆
朝霞市指定有形文化財 考古資料
一乗院の板石塔婆
板石塔婆は、中世に造られた供養塔の一種で、板碑とも呼ばれている。一乗院には、昭和二十六年から二十七年にかけて、境内墓地斜面から出土した。南北朝時代から室町時代までの百九十五基が収蔵されている。 — 朝霞市教育委員会の解説より
公式サイト
注釈
- ↑ 『朝霞市史 通史編』では、「このうち、石神井三宝寺の末寺になったのを、表暦六(一七二九)年十二月十二日としているのは誤りで、すでにこれより遥かに早く末寺になっていることは、三宝寺所蔵享保十四(一七二九)年四月の「末寺名簿帳」によって明らかである(『三宝寺誌』所収)。その創建が高麗氏と係わって高麗氏が開基になっているというのは事実を伝えているものと思われる。」と記されている。
- ↑ 『朝霞市史 通史編』では、「『新編武蔵風土記稿』一乗院の条で、(中略)「元弘」年中の板碑があったことを記しているが、これは誤りと見るのが適切であろう。若しこの記述が間違いないものとすれば、恐らく持明院関係のものと見なければならないものがある。」と記されている。

