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ページの作成:「三田村鳶魚 著『'''玉川上水の建設者 安松金右衛門'''』の現代語訳 第二章 (現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ) ==その二 野火止用水路==  『幼学綱要』<ref>『'''幼学綱要'''(ようがくこうよう)』は、明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書(倫理教科書)である。明治天皇の侍講(教育係)であった儒学…」
 
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 『幼学綱要』<ref>『'''幼学綱要'''(ようがくこうよう)』は、明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書(倫理教科書)である。明治天皇の侍講(教育係)であった儒学者の元田永孚(もとだ ながざね)が中心となって編纂し、明治十五年(1882年)に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例(逸話)を引用して解説している。</ref>(巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、
 『幼学綱要』<ref>『'''幼学綱要'''(ようがくこうよう)』:明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書(倫理教科書)。明治天皇の侍講(教育係)であった儒学者の元田永孚(もとだ ながざね)が中心となって編纂し、明治十五年(1882年)に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例(逸話)を引用して解説している。</ref>(巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、


:[[松平伊豆守信綱|松平信綱]]、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、[[野火止]]という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・[[安松金右衛門]]が建議していうには、「新しい渠(水路)を掘って、玉河(多摩川)の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳(ジメジメ)しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里(河が九里の幅まで潤す)といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。
:[[松平伊豆守信綱|松平信綱]]、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、[[野火止]]という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・[[安松金右衛門]]が建議していうには、「新しい渠(水路)を掘って、玉河(多摩川)の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳(ジメジメ)しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里(河が九里の幅まで潤す)といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。


 これを『紳書』<ref>『'''紳書'''(しんしょ)』は、江戸中期の儒学者、新井白石(あらい はくせき)が著した全10巻の随筆集である。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。</ref>と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。
 これを『紳書』<ref>『'''紳書'''(しんしょ)』:江戸中期の儒学者、新井白石(あらい はくせき)が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。</ref>と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。


 『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、
 『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、

2026年3月14日 (土) 21:19時点における版

三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』の現代語訳 第二章

(現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ

その二 野火止用水路

 『幼学綱要』[1](巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、

松平信綱、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、野火止という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・安松金右衛門が建議していうには、「新しい渠(水路)を掘って、玉河(多摩川)の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳(ジメジメ)しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里(河が九里の幅まで潤す)といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。

 これを『紳書』[2]と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。

 『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、

東京の西北数里、野火止というところがある。今は埼玉県北足立郡大和田町に属しているが、見渡す限り、うち続く畠の間には森あり、丘あり、家あり、流れあり、春は菜の花、麦の緑、秋はすすきの波、雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って見るからに野趣に満ちた眺めである。
昔この附近一体は、かの智恵伊豆といわれた松平信綱の領地で、その菩提寺の平林寺もこの野火止にある。平林寺の門をくぐって薄暗いほど茂ったカエデの下を進むこと約二町、本堂について右折すれば、スギやヒノキの生い茂っている林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで、ここに詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のような水が勢いよく流れてるのを見るであろう。
有名な野火止の用水というのがすなわちこれで、この水を引くについては面白い話が今に伝えられている。元来、野火止一帯は、土地高く、水利に欠ける。土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主としてこの地を領していたとき、代官・安松金右衛門は、新たに堀を掘って、玉川の水を引けば、必ず田畑ができると申し出た。そこで信綱がその費用の見積りを尋ねると、三千両あればよいという。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱はこのために、後々の人まで利益をうけることができるのであれば幸いであると、直ちに堀を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫に命じた。いよいよ工事に着手した。そうして今の中央線立川駅の北方一里のところから、この野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで、六里の間に堀を通じて、玉川の水を引くことにした。工事はやがて見事に落成したが、しかし、意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱はこれを見て、安松をなじると、安松はとにかく来年まで猶予を願い出た。だが、翌年になっても水がやはり来ない。ここに至って、信綱は安松が地勢の高低を考えずに工事を進めたものとして、その手落ちを責めたが、安松はなお自分を信じて疑わない。元来、この附近は、土地が乾き、風が烈しいために、これまで非常に土ぼこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。しかし、今年は、そんなことが全くない。のみならず、野菜の出来がいいのも、例年と異なっている。これは水分が地をうるおしているためで、たしかにその堀のおかげに違いない。何とぞさらに一年の猶予を、と願い出た。すると翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来って、たちまち六里の堀にみなぎった。信綱ははじめて、安松が自ら信じることの強いことを感歎し、厚くその功を賞したという。草ひいで、木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて、平林寺に詣でる者は、ただ春の花や秋の紅葉を賞するだけでなく、今なお流れて盡きない用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならない。

と書いて、何の穿鑿もせずに昔ながらの三年、水が来なかった話を繰り返すのみならず、野火止が新墾地であることも、用水が玉川上水を分けたものであることもいわないほどに麁陋(お粗末)なのは心外千万に存じます。

 野火止用水路は約四十日ほどで竣工し疏通した。それは前にも引証した榎本弥左衛門[3]『万之覚』に、判然と、

承応四年(明暦改元)三月二十日時分、野火止へ水流れ初り申候。ほり初は二月十日時分より初り申候。堀長さは四里程であるべく候。水上より野火止まで30間程ひがし、水上は江戸の水道にわりきり也。堀の口は深みになお不定、しきは三尺に極まり申候。

と書いてあるので疑いないことであります。この『万之覚』は前にも申してある通り、当時の記録なので、筆者が親しく見聞したままを書き付けておいたものであります。これほどたしかなものがあるのに、今日まで三年、水が来なかつたという誤った説が是正されなかったのは、かえってそれが訝しくはありませんか。

 大河内(正敏)子爵家に『本藩高志略伝』[4]という写本が三冊ありますが、その第一冊に、

安松金右衛門 水道を発すること
安松金右衛門吉実は、本国河内、生国播磨で、算術の達人である。正保元甲申年(1644年)、御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎で、松林公(信綱の法諡)に奉仕した。現米を百俵賜り、後に百石になり、三十石、七十石、両度の加禄にて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。そのころは野火止は武蔵野にあって、井戸もなく、泉水が湧出する所もなかった。正保四丁亥年(1647年)七月一日、(松林公が)一万五千石に御増加のとき、願いでて武蔵野を五千石拝領した。同州岩槻にあった平林寺を、今の野火止に移された。よって金右衛門に、玉川から水を引かせて、そのうち行程七里、高低曲直、岩石林木、金右衛門はこれを数え、計って、ついに水を引けることがわかり、水道を掘割らせた。そして「ここに水道を作ることができる。道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千載不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。金右衛門が水道を敷いたとき計画したよりも半時ほど水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、私の間違いである。水は七里を来る。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と。水道が成就した後、井を掘れば水が湧き、地を掘れば水が溢れる。人家も追々に造られ、新田・新畑を開発し、野火止の人民はその恩沢をこうむったために、金右衛門の名は高い。公儀の御帳にもその名がある。野火止五千石は高崎御分知である。

と書いてありますが、この中に「玉川から七里」というのは野火止用水のことであり、また、水道の路線に二筋あり、その一つを受け継いだというのは玉川上水のことで、そのことは後文に述べますが、野火止川水路は二線の中の一線を選んだのではありません。これを見ても玉川、野火止の二つの工事のことが紛れて、当の藩中にさえ伝えられていたことがわかるだろう。この写本は、水道ができて今百六十余年の星霜を経て、というのも玉川上水のことであり、「既に幾分の欠落を生じている」と書いてあることからもますます確かめられます。したがって、百六十余年というのも、明暦元年(1655年)玉川上水完成から数えるのだと思います。それなら、本藩高士略伝は文化・文政のころに書いたものと思われます。文化・文政のころならば、筆者も『紳書』や『遺老物語』を見て、水が三年来なかったという説も承知しておりさうなものであるのに、それは何とも言わずに「金右衛門、水道を敷いたとき、計画したよりは、半時ばかり水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、これは私の誤りである。水は七里を来ている。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と言っております。筆者は玉川上水工事と野火止用水工事と、ゴッチャに書いているので、大体話が混雑していますが、ここでは「水が七里を来る」と断ってもいるので、野止用水路のことなのが知れます。玉川上水ならば十三里とあるはずです。

 『本藩高土略伝』の筆者も、前に書いたとおり、藩祖・伊豆守信綱遺旨によって、古い書付はなくしているし、火事で焼失もしており、たとえあったところで誰にも見せないのですから、事実を考証する資料はないのでございます。しかるに、金右衛門が、野火止用水路開鑿に当って、考えていたよりも水の来るのが半時、ただ今の時計にいたすと一時間遅かったというのは、何によって書いたのだろうか。おそらくは藩中の人々の云ひ伝えででもあっただろうと思われる。だが半時では信綱が監督・叱責する時間もあるまい。また、武蔵野の野菜の出来がいいとか、ほこりが立たなくなったとかいう話も出る間がない。まったく、三年といふ日数であればこそ、いろいろと話すことにもなろうというものです。現に野火止用水路の村々には「二年たっても水が来ないで、金右衛門は申し訳に切腹した。その翌年に水が来たら、どこやらに金右衛門を水神様に祀って祠を建てた」などという、飛んでもないことを話す者さえあります。

 半時遅かったということは、金右衛門が水利に巧みな者であるのを称賛した言葉と思われる。水利設計にほとんど計算間違いのないほど、優秀な技術者であることを逆に言い表したのであろう。ですから、半時説は吟味せずともよろしい。ただ、三年説は、『万之覚』の記録するように、約四十日にして疎通しているのに、どうして発生したのであろうか。ここで注意すべきは、玉川上水が承応二年に起工して、明暦元年に完成していることで、足掛け三年目に出来上っております。

注釈

  1. 幼学綱要(ようがくこうよう)』:明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書(倫理教科書)。明治天皇の侍講(教育係)であった儒学者の元田永孚(もとだ ながざね)が中心となって編纂し、明治十五年(1882年)に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例(逸話)を引用して解説している。
  2. 紳書(しんしょ)』:江戸中期の儒学者、新井白石(あらい はくせき)が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。
  3. 榎本弥左衛門忠重:武蔵国川越の商人である。寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。
  4. 本藩高志略伝(ほんぱんこうしりゃくでん)』:江戸時代に編纂された、川越藩(松平信綱の系統)の藩士たちの伝記集。大河内松平家に仕えた歴代の「高志(志の高い優れた家臣)」たちの略伝を収めている。
玉川上水の建設者 安松金右衛門