和名抄諸国郡郷考
和名抄諸国郡郷考は、富永春部が纂述した、和名類聚抄の国・郡・郷についての研究書である。明治二年。
以下、新羅郡・新座郡に関連する内容を現代語訳する(現代語訳=シラキのコホリ)
和名抄諸国郡号考 巻六 東海道下
武蔵
牟佐の国 延喜式の大国 今考えるに、名義は古事記「佐泥佐斯(さぬさし)」と伝えられており、佐斯は国名で武蔵は身佐斯の意であろう。古書に身刺と書かれているものが多い。身とは、中に主としてあるところを言う。武蔵は佐斯国の中で主となる真原の地であるからこのように名付けたのだろう。佐を(「ざ」と)濁るのは連濁音便である。
『方角抄』鎌倉より奥州へ下るとき、先にむさしへ出る。武蔵野の始まるところは鎌倉から五六里である。鎌倉より北に当たる。国中に山なし、秩父山の嶽は西の端である。云々。
むさし根というのもこの秩父山である。この山から見越しに富士が見える。また、あら川というのは、秩父山から流れ出て東へ流れ出る大河である。
新座
爾比久良(にひくら)
『松山巡覧志』新座村 白子宿。立義にいう、土地の人は「しらく」という。里の老人が言うには、武蔵に新羅郡というのがあったが、いつのころにか絶えた。この辺はその「しらき郡」のあとなので「しらき」と言ったが、いつしか転じて「しらく」と唱え、文字さえも改まったという。
考えるに、『続日本紀』「天平宝字二年 帰化した新羅の僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移す。ここに始めて新羅郡を置く。」「四年、帰化新羅一百三十一人を武蔵国に置く。」また「宝亀十一年、武蔵国新羅郡の人 沙良直熊ら二人に姓広岡造を賜った。」以上のように見えるが、早くから廃れたようであり、民部式に載せた郡名の中には見られない。その後の和名抄・拾芥抄などにも見えない。たまたま類聚往来の武蔵国郡名のところに新座郡となくて新羅郡とある。これは何によって記したのだろうか。古書にないこととわずかにこの書をもって証明とはしがたい。ただ、後世の書に出たのが珍しいので記しているだけである。
ただし、しいて説を言うならば、新座は新羅の転であろう。そうであれば、新座と書いたために文字に合わせてにいくらと言うようになったのであろうか。
新座郡
志木(シキ)
今考えるに、志木は志羅木(シラキ)だったのを2字にしたのだろうか。郡名の新座も新羅の転である。新羅郡のことは上記で続日本紀を引いて延べた。また持統紀元年夏四月「筑紫大宰、帰化新羅人僧尼及び百姓男女合わせて22人を進上した。武蔵国に居住させ、田を支給して、農業に従事させる」、続日本紀天平宝字四年四月「帰化した新羅人131人を武蔵国に住まわせる」とあり、郷名も郡名もここから出たのであろう。また宝亀十一年五月「武蔵国新羅郡の人 沙良真熊など二人に姓広岡造を賜う」云々ともある。
行嚢抄 江戸坂橋の出口より川越城下に赴く路に「四楽 根利間より二里、白子ともいう」とある。四楽は「シラク」、白子ともいうのは「シラコ」であって、シラクもシラコもみなシラキの転訛である。