新羅郡

提供:シラキのコホリ
2024年9月23日 (月) 09:24時点におけるシラキのコホリのツカサ (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「'''新羅郡'''(しらきのこほり/しらぎのこほり)は奈良時代の天平宝字二年(758年)に武蔵国に置かれた郡である。その後、時代を経て新座郡へと名称が変化した。 ==設置== 『続日本紀<ref>日本書紀・続日本紀の新羅郡記事参照。</ref>』によれば、天平宝字二年(758年)8月24日、帰化新羅人の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の空閑…」)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

新羅郡(しらきのこほり/しらぎのこほり)は奈良時代の天平宝字二年(758年)に武蔵国に置かれた郡である。その後、時代を経て新座郡へと名称が変化した。

設置

『続日本紀[1]』によれば、天平宝字二年(758年)8月24日、帰化新羅人の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の空閑地に移住させ、始めて新羅郡を置いたとされる。すなわち、新羅とゆかりのある地名ということになる。なお、このときの武蔵守は、高句麗王族の子孫とされる高麗福信であった。

同じく奈良時代の宝亀十一年(780年)に「武蔵国新羅郡の人 沙良真熊など二人に姓広岡造を賜う」という記事が見られる。

しかし、新羅郡という文字が文献に現れるのはここまでであり、延喜式民部省(967年施行)では「新座郡」はあるものの「新羅郡」の表記はない。そのため、780年~967年の間の約180年の間のどこかで、新羅郡が新座郡と呼ばれるようになったものと思われる。

郡は「コホリ(⇒こおり)」と呼ばれる。「国」の下の行政区域である。大化の改新(645年)の際にコホリが設置されたが、その時点では「評」と書かれていた。その後、大宝律令(701年)では「郡」と記されている。758年にはじめて置かれた新羅郡は、当初から「郡」であり、新羅「評」と書かれた時代はなかった。

シラキ

「新羅」という国名は現在、「シラギ」と濁って読まれるのが通例である。しかし、奈良時代の『万葉集』には「新羅奇」、『出雲国風土記』には「志羅紀」と書かれており、それはいずれも「シラキ」と清音で読まれていたことを表している。

つまり、奈良時代に設置された時点で、新羅郡は「シラキのコホリ」と呼ばれていた。

領域

武蔵国内にあったということしか確定できない。そもそも、新羅郡は武蔵国の空閑地に設置されたものであり、他の郡の一部の領域を割いて設置されたわけではない。ただし、現在の和光市新倉白子周辺が中心地であったのではないかという推測が成り立つ。

「閑地」についての考察

まず、「758年8月24日、帰化新羅人の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の空閑地に移住させ、始めて新羅郡を置く」という記載の中にある武蔵国の「空閑地」(原文は「武藏國閑地」)という表現であるが、これは、武蔵国の空白エリア、すなわち「どこの郡にも属していないところ」と理解できる。

加藤恭朗「新羅郡と高麗郡の建郡を考えるー建都記事と遺跡の動態から」[2]に「新羅郡の位置と郡域については、今のところ埼玉県南東部の志木市・朝霞市・和光市・新座市の四市域が該当すると想定されているが、古代入間郡の一部か、あるいは武蔵国新羅郡の人沙良眞熊が「広岡造」の名を賜っていることから豊島郡の一部を分割した引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足しています。したがって、入間郡・豊島郡のいずれか、もしくは双方を「割いて」新羅郡を置いたとは考えられない。

この時代、約50戸を1郷として設置し、残りは余戸郷と称していた。これは、郷の領域がエリアではなく、住人の人数をもとに決められていたことを示している。言い換えれば、人が住んでいない荒野は郷(また、郷の集合である郡)の範囲外だったということになる。江戸時代に入っても荒れ地の多かった武蔵野において、奈良時代には空白地ばかりであったといえるだろう。

そのことはまた、「新座郡の領域」を決められないことにもつながっている。志木郷が新倉・白子エリア付近という推測は成り立つが、その住人がどこまで有していたかという明確な範囲は定めることができない。

これが後世になると次第に空白地がなくなってくるため、領域を明確化することもできるようになる。ただ、「新羅郡」と呼ばれていた時代には、新倉・白子付近に新羅郡があったとしか言いようがないわけである。

参考文献

  1. 日本書紀・続日本紀の新羅郡記事参照。
  2. 加藤恭朗「新羅郡と高麗郡の建郡を考えるー建都記事と遺跡の動態から」『渡来・帰化・建郡と古代日本 新羅人と高麗人』(古代渡来文化研究 3) 日本高麗浪漫学会/監修, 須田 勉/編 , 高橋 一夫/編 高志書院 2023.5 p.47