新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1

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新編武蔵風土記稿 巻之一百二十九
新座郡之一

現代語訳=シラキのコホリのツカサ

郡図

総説

新座郡は延喜式民部省の内に始めて武蔵国新座と見える。この郡名はいにしえ郡郷を定められたときから置かれたのか、またその後にできたのか。延喜より以前のことは古記にも現れていないので、その年代を今から考えることはできない。

また、倭名鈔新座郡の註に「爾比久良」とあるので「ニヒクラ(にいくら)」と称することは古くからの言い方であった。それで、中古からは仮借して「新倉」とも書いた。

古老が伝えるには、御入国の後までは「新座」「新倉」と書くことが並び行われていたが、座の字を「くら」と訓読みするのは世の人が耳慣れないことから、後に地元の人はみな「新倉」と書くに至った。さて、新倉村の人が、わが村は郡の本郷であるといって、他の村をおとしめるような言い方をしたため、村の人は穏やかではないと思い、ついには論争を起こして訴えた。そのときの御代官が聞いて、「なぜこのようなことがあるのかといえば、郡名の字を誤って村名と同字を用いたがゆえに、愚かな民がこのような道理に合わないことを言い出しているのだろう」ということで、郡の文字を座の字に改められたと言い伝えられているというが、その年代は不詳であるという。

土地に伝えられた簿書に「元禄十一年(1698)までは新倉郡と記し、同十二年(1699)から新座の字に改めた」というが、正保(1645-1648)の改に新座郡と記してあるので、信じがたい。

ともかく、新倉の言い方があるのだから、この村が郡の本郷であることはいつわりではないだろう。たとえば豊島郡に豊島村があり、入間郡に入間村があり、高麗郡には高麗本郷がある。この数村はみな郡の本村である。当郡もまたそうであろう。

すでに、いにしえは新座村とさえ書かれていた。その証しは正保と元禄の改に明らかである。古老が伝えたとおりであれば、よこしまな民をくじくためにそのように命じられたのだろうと思われる。それ以降、言い方も地区ごとに分かれて、東南の方では「ニヰクラ(にいくら)」とも「ニヰザ(にいざ)」ともいう。西の方、高崎領の辺では「シンザ」という。このように古称を失ったので、現地の人は混乱して称している。しかし、享保二年(1717)、郡名の読み方を定められ、また享和三年(1803)にも郡村の言い方を細かいところまで調べるべきであるとの命があって、そのうたがわしいものを正されて、今は「ニヰザ(にいざ)」と言うこととなったのである。

この郡は江戸から乾(北西)の方角に当たり、行程は四里以上ある。東は豊島郡に隣接し、おおよそ白子川を境界としている。南西は豊島・多摩二郡のきわに押し入り、西から北へは斜めに入間郡に接し、おおよそ柳瀬川を境界とするが、川越道の筋には中野村が柳瀬川の西にある。また、西北の隅にあたって本郡内間木村と入間郡宗岡村との界は地続きである。北から東へはこれも斜めに足立郡に隣接し、荒川を界としている。東西二里あまり、南北二里半ばかりである。前にも述べたとおり、四隅ともに斜めなので、その形は菱形に似ている。

土地の大半は高く、南の方には山谷林丘が多く、イノシシ、シカ、キツネ、タヌキ、ウサギの類が住んでいる。北の方は川が延べわたっており、水鳥や野鳥が多い。その辺はみな平地であって、多くは砂場である。

言い伝えでは、この郡はむかしははなはだ小郡であって、今の西北の崖下は当時は大河入江のようであり、白浪が岸を洗っていたという。今の地理をもって考えれば、この説はおぼつかないことであるが、桑田の変がないとはいえないだろう。

また、南西の方も中古まで武蔵野の末であって、茫々たる原野だったので、そのころは今の新倉・白子の数村の地のみ民家があったと思われる。延喜式にも五十戸以上で隣郡に付しにくい地は別に一郡を置かれたと書かれているので、この地は小さな村里であるが地理によって一郡と定められたのであろう。

御入国以来、年々に新田を開かれたため、今は土地の高いところは陸田となり、低いところは水田となって、すでに七~八分は開けたけれども、なお山林原野も少なくない。水田が陸田に比べると少ないのは地勢のためである。寒暖の気候はおおよそ豊島・多摩などの数郡と同じ。すべて田畑の土目は中の中であって下もまじっている。しかし、地元の人が耕して培養の功を欠かないため、諸作物はともに豊作であって、戸数も多い。

風俗はおおよそ他郡と異なることはない。ただ、重陽の佳節を祝うのは九月九日に限らず、家々農事が終わるまでとしている。ゆえに収納の遅速によっては、神社の祭日を用いることもあるという。また召し使う者の出入りは二月二日を期限とする。これは江戸と違う。江戸も昔は二月二日を期限としていたが、今はすべて三月五日に定められている。そのように定められたのは寛文九年のことである。

郡内街道は二条ある。その一条は江戸から川越への街道であって、東の方は豊島郡赤塚村から入って郡中を横に抜き、行程二里を経て西の方、大和田町から柳瀬川を越して入間郡に入る。言い伝えによると、この街道はむかしは今の道よりは北にあった。その跡が現に残っているのがところどころにあるという。しかし、この古街道がいにしえの鎌倉街道であるというときは、今の川越街道とは別なのであろう。僧・日蓮が佐渡国へ配流されたとき、武蔵国に至り、久米川の地から新倉を過ぎ、日を経て児玉時国のもとに宿したということが年譜にあるのは、ここで言っている古街道のことであろうか。なお、その古道の凝っている村々へも出しているため、照らし見るべきである。

もう一条は甲斐国・相模国から陸奥への街道であり、南側は多摩郡清人村から郡内菅沢村へ入って、北へ向かい、引又町から新河岸川をこえて入間郡宗岡村へ入り、数里を経て足立郡与野宿に達する。この街道も昔から開けているというが、その年歴は伝わらない。これもそれぞれの村々に載せた。

郷名

和名抄に所載の郷名は一つ+余戸

志木

今、その地がわかっていない。地元の人が言うには、白子のあたりであろう。コとキとは五音の相通であるから、「シラキ」というのを中略したものであろうという。この説は牽強付会にもおもわれ、簡単には受け入れられないが、このころ郡内の多くは未開の地であったから、その在所は実際に白子のあたりであっただろう。

余戸

今の郷名

片山

10村。この地は江戸から行程四里であって、郡の南端にある。隣郡・多磨郡の地にも少しまたがっている。郷の中の東南はすべて土地が高く、西北に向かって崖がある。崖下の耕地から見れば片山と名付けたのもおのずから地の様子によっていることがわかる。東は広沢原から南の方へかけて小榑(こくれ)・保谷などの数村と境をへだて、西は多磨郡神山郷の隣であり、本軍にかかっては野火留宿の地に接する。北は新倉郷膝折宿の境に至る。東西は一里半にすぎず、南北はわずかに半里ばかりである。その中でも郡中にある地はいにしえはわずか一村でであって、片山村だけだったが、後、その村地を分けて10村とした。このほか、多磨郡の内落合村と同村の新田とを合わせて12村がこの郷に属す。

土地の人の言い伝えに、昔、七沢七郎という人がこの地に住んだという。この地は崖下に七か所の沢があって水田を養う水となった。地名にも中沢がある。そのほか、大沢・小沢などといういうものがみな七沢のうちである。そうであれば、七沢をもって氏としたのではないだろうか。この人のことは、他に伝えられる事跡が知られていないという。また、土地の人で好事家の者がいうには、七沢氏のことは古老の伝えたものだけであって、別に証拠となるべきこともないという。

また、御入国の後に片山七騎と号してこの地の地頭・米津内蔵助をはじめとして桜井庄之助、神谷与重郞、荒川又六郎(子孫が断絶したために当所のうちどの地を知行していたかはわからない)、木村伊右衛門、柘植甚八郎(これも子孫が断絶したため、知行の地を伝えない)、小野久内らがこの地に住んだ。後には人数も増して、十八騎となったという。しかし、七人のほか、田中一郎右衛門がこの地を賜ったことは家譜にも見えているが(田中の知行も所替えがあったので旧領の地が今いずれの所であったかわからない)、そのほかの名は聞こえないので、十八騎というものはおそらくは誤りで、八騎だったのであろう。

この郷の陸田は土性真土であって根張り少なく、糞芥の培養がなければ諸菜よくない。水田は水乏しく、沢々の水や野寺村児ヵ淵の水を引いて養水としているので、ややもすれば足りないことを憂いている。昔、松平伊豆守信綱の家人・安松金右衛門に命じて多摩川の水を引いたとき、この郷中から人夫を出して助ければ長く養水の便を得て互いの利となるだろうとさとしたのに、頑愚な土地の住民らは受け交わさなかった。おそらく心中では、「郷中に沢があって養水には足りている。それに今回のくわだては恐らくは完成しないだろう。もし水利をむさぼって人夫を費やしたとしても多くは無駄になるだろう」と考えたのだろう。だが、案に相違して、隣村には水が溢れるに至った。そこで今に至ってもこの郷へ水を引くことを得られず。土地の人の後悔は大方ならずという。

1村。北条の家人 大石家の館跡がある地なのでこの郷の名が起こったのだろうと土地の人は言う。しかし、郷名の起こったのはもっと古い世からのことなので、この説もうかつには信じることができない。楯村に大石家の館跡があるというが、北条家の家人なのでやっと永禄・天正の間(1558~1592)のことと思われる。それより以前の世から舘があったとしても、大石家は木曽義仲の子孫であるというのだが、そのような古い世のこととも思われない。

すべて郷名の起こりは和名抄には載っていないといえども往古のことと思われる。ほかに理由があるのだろうが、わかるわけもない。しかし、中古、村名や字の区別もなく、すべて郷と記したものも文書などによく見られるので、これらもその類であって、舘村の郷と記したのがいつのまにか郷名ということになったのではないだろうか。

この郷は郡中、西北の方にあって、広沢の庄にかかっている。属するのは舘村の一村だけである。地形は、東は野方領の内、宮戸村を境界とし、南の方は大和田野火止などの村々に接している。その二村は郷庄の名称も今は伝えない地であるという。西から北へは入間郡に隣り合っており、柳瀬・新河岸の二流が境をめぐっている。東西二十町あまり、南北は一里にあまる。

郷中すべて土地高く、畑が多い。西の方、柳瀬川の辺だけ水田がある。もとより僻地であるが、陸奥街道にかかっているため、おのずから旅人の往来もあって、賑わっている土地である。

新倉

9村。郡内の東北の方にある。郷の東南は保谷村に始まって、郡の東の境を北の方へ長く続いている。そのうち、広沢原から北はおおよそこの郷に属している。北の方は荒川を境界とし、東はすべて豊島郡に隣接し、南は多磨郡に至り、西は郡内の片山郷の諸村に及んでいる。そこから川越街道を境界とし、西北に寄ったところに舘村のうち引又町、入間郡宗岡村に接している。郷中にはすべてで20村あって、広沢庄野方領の地にかかっている。

この郷名は和名抄には載っていない。その後いつのころから起こったのだろうか。文保年中(1317~1319)親王家から吉良亀松に下し賜われた文書には、武蔵国新倉郷七百貫云々と載せられているが、今の世では村と称すべきものでも郷と書いたものが古記に多く見られるので、舘郷と同じ疑いがないわけではない。また、新倉の文字も古くから書かれてきたこともこれによってわかる。これは全く訓の具合がよいのに従った者であろう。その実は郡の本であるため、新座の字を用いる方が正しいかもしれない。

荘名

今の荘名

広沢(廣澤)

23村。この庄名はいずれのころから起こったかわからない。本郡岡村の南の方に広沢の池があり、このためにその辺をすべて広沢と号すともいう。これはこの辺に沢が多い中でも、この池だけが特に広く、池の中の水の漏出するところが数か所ある。土地の人はそこを指して七ツ釜という。それでこの池も広い沢というようになったのでこの名が起こったのだろう。とはいうものの、それもただ口碑に伝えただけで、そのような証拠はないので、もとより広沢の名があったために池もそう名付けたのかもしれない。

この庄は新倉・片山・舘の3郷にまたがり、属する村が多い。郡の東から西へ貫き、南は中沢・小榑などの数村にとどまり、北は田島・宮戸などの村々に至る。

領名

今の領名

野方

34村。そのうち、宮戸・内間木の辺は、土地の人は峡田領(はけたりょう)であるというが、誤りであろう。

里名

今の里名

黒目里

堀ノ内・栗原・十二天・辻などの諸村にこの里名がある。黒目川の名によって起こったのであろう。

村数

34村

34村というのは今現在の数である。正保年間の改に村数18。元禄の改正には13村増えて31村となっている。その後また3村が増えて今の数となった。このほか後年新開の地ができて持添新田と称するものが7。これは本村に付属している。

山川

黒目川

水上は多磨郡柳窪村で、所々の清水が集まり、二条の流れとなる。同郡落合村に至って合流して一流となり、本郡栗原村へ流れ入る。この辺をすべて黒目里というため、この名がある。久留目川とも書き、また来目川とも記す。

川幅は2~3間のところも5~6間のところもあり、末流に至って十余間に至る。その中でも根岸河岸より下は川幅もことに広く、船の往来が絶えない。すべて水上から村数13村ばかりの地、およそ2里あまりの間を屈曲して流れ、田島・根岸両村の際にいたって新河岸川に落ち合う。フナ・ナマズの類が多く生ずるが、土地の人は漁していない。

白子川

この川を新倉川とも呼ぶ。もとは一条の流れであったが、至るところによって名が異なる。水上はこの郷の小榑村と豊島郡土支田村との境の井頭池から流れ出て、郡の境5村の間、2里半ばかりを経て荒川へ落ち入る。川幅が狭いところでは1~2間、広いところでも10間以上にはならない。上下白子村の辺では白子川といい、下新倉村では新倉川と称している。

原野

広沢原

郡の中央に広がっている。この辺の地名を広沢というため、この名がある。訛ってヒラサワともいうため、今、平沢と記すところもある。昔は限りなき曠野であったが、今は土地開けて、原も減ってきたという。しかし、なお長短を等しくするときは一里四方もあるだろう。白子・新倉・小榑・片山・膝折・丘・根岸・台などの村々がその境をめぐっている。そのため、新倉に近いところを新倉原といい、膝折の辺では膝折原といい、辻村の台の上を上ノ原という。これらはみな広沢原の内である。

享保年中から次第に新田となって、18村各自進退するというが、多くの村々へわたる原といい、しかも今もいにしえの状態を失っていない。草・茅・樹・木立がむらがって分けるのに惑うほどの地なので、ここに載せた。なお、新田の状も合わせて読むこと。

水利

井頭池
豊島郡とこの郡の境にある。この池の下流、白子川・新倉川の間、所々に堰をかまえて東方数村の用水としている。
児ヵ淵
野寺村にある。片山の諸村の養水はこの淵から出ている。
七ツ沢
片山郷の内にある。これも郷中の養水となる。
広沢池
岡村にある。この辺の諸村の養水はみなこの池の中の七ッ釜というところから漏出している。
黒目川養水
栗原村・十二天村。この辺でも所々に堰を設けて養水を引いている。
多磨川分水
多磨郡羽村分水の下流。同郡小川村の境から分かれて本軍へ入り、数条となってみなぎり流れて、引又町のはてに至る。その間2里に及ぶ。水の色は炊水(米のとぎ汁)のようであり、潺湲(せんかん=さらさらと水が流れる様子)としている。これは郡中の西の方の諸村の養水となっている。
言い伝えによれば、松平伊豆守信綱が川越を領した。この領内、当郡武蔵野のうち、野火留の曠野を開墾することを計画したが、この地は水利が悪かったので、遠く多磨川の水を引こうとして、その旨を言上し、御許しをこうむった。やがて家人の中で水利に精通した者を選び、安松金右衛門に命じてそのことを司らせた。そのころ、大和田の辺や多磨郡のうち本郡近辺の地の多くは開けていなかったが、水利の便を経れば開墾される地も多いだろうと、土地の民はこぞって願った。そこで彼らにさとして人夫を出させたので喜び勇んでつとめたため、それほどかからずに16里の間を掘り通して新河岸川の岸に至ったので、水が来るのをまっていたところ、1年を過ぎても来なかった。信綱がまた質問したところ、安松が答えたのは、「とかく水は入るべきものでありますが、返す返すも申し上げたい。この御城下は武蔵野の内で土性うるおいなく、風あれば塵土を吹き上げるため、家々席上に紙を延べ敷いてこれを防いでいます。しかし、今年はいつの年よりも砂塵が少ない。また、土地の民に尋ねたところ、諸菜のうるわしいことは今年のようなことは今までなかったと答えました。思うに、水上は遠くてすぐには水が来ないけれども、土中には自ら広く潤っていることは、この二つのことからもわかるでしょう」ということなので、信綱が今度は当時の代官・羽生又右衛門という者に問うたが、安松が申すことは虚偽ではなかった。しかし、3年をすぎてもなお徴候がなかったのでまた安松に問われたところ、去年の答えのとおりであったので、そのとき、信綱は「3年の久しい期間を経て水が来ないのであるから、汝の申すことを疑わざるを得ない」とのことであったが、安松は驚く気配もなく、ほどなく水が来るでしょうと言った。その年の秋に至って、大雨のあと、水の音がおびただしく、さながら雷のように響き渡って、16里ほどみなぎり、一時に新河岸川へ流れ入った様子は目を驚かせる許りであったという。それから多磨川水道の水7分は江戸へかけられ、3分は川越領新田の養水に賜り、今に至って当地の水利は乏しくなくなったという。

土産

大根
ゴボウ
蕪根
この四種最も多く、美味である。そのほかの諸菜も耕して江戸へ運んでいる。
荒川から出る。味はことにおいしい。土地の人はすべて荒川鯉という。多くは江戸へ運んで士地でもはなはだ少ない。
新編武蔵風土記稿
郡図、総説
野方領
石神村、堀之内村、(堀之内村枝郷)栗原村、十二天村、中沢村、上片山村、野寺村、辻村、原ヶ谷戸村、下片山村
大和田町、野火留宿、菅沢村
館村、北野村、上内間木村、下内間木村、宮戸村(附持添新田)、浜崎村(附持添新田)、溝沼村(附持添新田)、膝折宿(附持添新田)
岡村、広沢原新田、田島村(附持添新田)、根岸村、台村、上新倉村、下新倉村
上白子村、下白子村、橋戸村、小榑村、上保谷村(附持添新田)、下保谷村(附持添新田)