日本書紀・続日本紀の新羅郡記事

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日本書紀・続日本紀における新羅郡関連記事のまとめ。

日本書紀

巻三十

持統元年四月癸卯条
夏四月甲午朔癸卯、筑紫大宰献投化新羅僧尼及百姓男女廿二人。居于武蔵国。賦田受稟、使安生業。
687年4月10日、筑紫大宰、帰化新羅人僧尼及び百姓男女合わせて22人を進上した。武蔵国に居住させ、田を支給して、農業に従事させる。
持統四年二月戊午条
戊午。新羅沙門詮吉。級飡北助知等五十人歸化。
690年2月11日、新羅僧 詮吉、級飡[1] 北助知ら50人が帰化した。
持統四年二月壬申条
壬申。以歸化新羅韓奈末許滿等十二人。居于武藏國。
690年2月25日、帰化新羅人 韓奈末[2] 許満ら12人を武蔵国に居住させる。
持統四年八月乙卯条
乙卯。以歸化新羅人等居于下毛野國。
690年8月11日、帰化新羅人を下毛野国に居住させる。

続日本紀

巻二十一

天平寶字二年八月癸亥条
癸亥。歸化新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。移武藏國閑地。於是。始置新羅郡焉。
758年8月24日、帰化新羅人の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の空閑地[3]に移住させ、始めて新羅郡を置く。

巻二十二

天平寶字四年四月戊午条
戊午。置歸化新羅一百卅一人於武藏國。
760年4月28日、帰化した新羅人131人を武蔵国に住まわせる。

巻三十六

宝亀十一年五月甲戌条
甲戌。左京人從六位下莫位百足等一十四人。右京人大初位下莫位眞士麻呂等一十六人並賜姓淸津造。左京人從六位上斯𦼳行麻呂賜姓淸海造。右京人從七位下燕乙麻呂等一十六人並賜姓御山造。正八位上韓男成等二人賜姓廣海造。武藏國新羅郡人沙良眞熊等二人賜姓廣岡造。攝津國豊嶋郡人韓人稲村等一十八人賜姓豊津造。勑出羽國曰。渡嶋蝦狄早効丹心。來朝貢献。爲日稍久。方今歸俘作逆。侵擾邊民。冝將軍國司賜饗之日。存意慰喩焉。
780年5月11日、(中略)武蔵国新羅郡の人 沙良真熊など二人に姓広岡造を賜う。

注記

  1. 級飡は新羅の官位である。級伐飡ともいう。
  2. 韓奈末は新羅の官位で、級飡の一つ下の「大奈麻」であると考えられる。大奈麻は韓奈麻や大奈末と記されていることがあり、韓奈末もその異表記と考えるのが妥当だろう。
  3. 新羅郡は入間郡を割いて作ったのか、それとも豊島郡を割いて作ったのかという議論が行われているが、ここにあるように「閑地」つまり空白の地に新羅人を移住させたというように素直に読むべきだと思われる。現在のように地図上で境界線がきれいに引かれ、空白地がないように区切られるようになったのは後代のことであり、当時は集落と集落の間には空白の地が広がっていたと考えるのが妥当である。詳しくは新羅郡#領域参照。