廻国雑記

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廻国雑記(かいこくざっき/クワイコクザッキ)は、室町後期、聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の准三后(じゅさんごう)である道興准后(どうこうじゅごう、道興大僧正)の紀行文である。

文明十八年(1486年)6月~翌3月にかけて、北陸・関東・奥州を遊歴し、漢詩・和歌・俳諧などを交えた紀行文で、当時の各地の修験者の動向を知ることができる。

新座郡についての記載

廻国雑記の中では、新座郡エリアの地名も記載されている。特に大塚の十玉坊は当時の関東における修験道場の中心的存在であった。

  • 大塚の十玉坊(志木市)
  • 大石信濃守の館(志木市)
  • 野寺(新座市)
  • 野火止塚(新座市)
  • 膝折(朝霞市)
  • 浜崎(朝霞市)

以下、新座郡内の地名が言及されている箇所の原文を示す。[1]

廻国雑記 新座郡関連の原文

  • 近江国→若狭国→越前国→加賀国→能登国→越中国→越後国→上野国→武蔵国→下総国→→上総国→安房国→相模国→下野国→常陸国→下総国→武蔵国→相模国→伊豆国→駿河国→相模国→武蔵国

むねをか[2]といへる所を、とをり侍りけるに、ゆふへの煙を見て

  ゆふけふりあらそふくれを見せてけり わがいへいへのむねをかのやと

  • 堀兼の井(狭山市堀兼の井戸)
  • 入間川
  • 佐西の観音寺(高麗郡篠井村(ささいむら)。佐西とも書かれた)
  • くろす川(入間市黒須)

佐西をたちて、武州大塚の十玉か所[3]へ、まかりけるに、江山いくたびか、うつりかはり、侍りけん、その夜のとまりにて、

  山攣唆険海波瀾  到処多其行路難
  踈屋終宵風雪底  凍鶏喚夢月西寒

ある時、大石信濃守[4]といへる武士の館に、あそびにまかりて、あそび侍るに、庭前に高閤あり。矢倉などをあひかねて侍りけるにや、遠景勝れて、数千里の江山、眼の前につきぬとおもほゆ。あるじさかづきをとりいだして、くれすぐるまで遊覧しけるに、

  一間乗興屡登楼   遠近江山分幾炎
  落雁叫霜風颯々   自沙翠竹斜陽幽

十玉か坊にて、人々に二十首歌よませ侍るに、

   閑庭雪

  あといとふにはとて人のつれなくは とはぬこころのみちもうらみし

   霰妨夢

  ふしわぶる篠のしの屋の玉あられ たまさかにだにみるゆめもなし

   年内待梅

  はるをまつこころよりさくはつ花を いつかふゆ木の梅にうつさん

大塚をたつとて、十玉につかはしける

  さらにける玉のゆくゑとけさはみよ わかれしきみがみちしばのつゆ

  • 河越 最勝寺(最勝院)
  • 常楽寺(川越市上戸)
  • 月よしという武士(川越市月吉町)
  • うとふ坂(川越市岸町2丁目の烏頭坂)
  • すぐろ(坂戸市石井に勝呂廃寺跡がある)

又、野寺[5]といへる所、ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。此かね、いにしへ、国の乱れによりて、土のそこにうつみけるとなん。そのまま、ほりいださざりければ

  をとにきく野寺をとへば あとふりて こたふるかねもなきゆふべかな

此あたりに野火とめのつか[6]といへるつか侍り。けふはなやきそと詠せしによりて、烽火たちまちにやけとまりけるとなん。それよりこの塚を野火とめと名づけ侍るよし、国の人申侍りければ

  わかくさのつまもこもらぬふゆされに やかでもかるる野火とめのつか

これをすぎて、膝をり[7]といへる里に、市侍り。しばらくかりやにやすみて、例の俳諧を詠じて、同行にかたり侍る、

  あき人はいかでたつらん ひさをりの市に脚気をうるにぞありける

  • (中略)

十玉か坊にて、三十首の歌を詠し侍りけるに、

   冬地儀

  をしなへて草木にかはるいろもなし たれかは六のはなとみるらむ

   月前雪

  すむ月の御ふねしつかに夜わたるや 千里はれゆくゆきのしらなみ

   浪上千鳥

  網人のうけのつなてをよそに見て ちとりもともをひくなみちかな

   初尋縁恋

  たよりふく風になひかば はつおばな ほのめかしつついさこころみん

おなじ宿坊にて、夜もすがら炉辺に嘨吟して

  寒燈桃尽夜沈々   独臥空牀思不禁
  為我詩神如有感   松風生砌助愁吟

雪のあした、ある所の高閣にのぼりて、偶作

  危楼朝上百花鮮   交友無憐詩酒筵
  此地逍遥似何処   乱山畳嶂雪嬋娼

十玉か同宿 十仙といへるもの、連歌に数寄侍りて切々に興行し侍りけるとなん。ある時発句所望しければ、

  まつ日のみ山につもりて雪をそし

人々十五首のうたよみ侍りけるに、

   川千鳥

  とま名川かせさえぬらんゆきかへり こほりをつくるさ夜ちとりかな

   懸樋水

  しはの戸ははやいでがての冬されに かけひの水もこほりとぢけり

   炉火似春

  うづみ火の灰かきわけてむかふ夜は はるのひかりを手にまかせつつ

   依涙顕恋

  せきかぬるわがころもてのなみたゆへ 人のうき名もながれやはせん

   山海眺望

  わたつうみのなみの千さとをへたてきて 山にも見るめからぬ日はなし


  • (中略)
  • 野老沢 観音寺(所沢)

此所を過ぎて、くめくめ川[8]といふ所侍り。さとの家々には井なども侍らで、たたこの川をくみて、あさゆふもちゐ侍るとなん申しければ、

  さと人のくめくめ川とゆふぐれになりなば 水のこほりこそせめ

  • (中略)

武州大塚といへる所に住み侍りける時、近衛前関白殿下よりはじめて御書到来し侍り。これをひらきて一度は喜び、一たびは恋慕のうれへにしつみて

  従兼君別始看書   異国天涯千里余
  忽憶帰期涙先落   待春遊子数居諸

  • (中略)

十玉か方より、紅梅のいろこきをはしめて見せければ、

  こころざしふかくそめつつなかむれは なをくれなゐの梅そいろそふ

かの老僧、扇の賛を所望し侍りき。かの絵に、山路に雲霧をわけ侍る行人 橋に行きかかりたる所

  同遊相引歩徐々   靄霧阻山前路処
  独木橋辺人不見   松間鐘勤夕陽初

おなしこころを和にて かきそへ侍りける

  山もとのむらのゆふぐれこととへば またほととをし入あひのかね

野遊のつゐでに、大石信濃守か館へ招引し侍りて、鞠など興行して夜に入りければ、二十首の歌をすすめけるに

   初春霞

  かさならぬはるの日数を見せてけり また一重なる四方のかすみは

   帰雁幽

  かすみつつ しばしすがたはほの見えて こえよりきゆるかりのひとつら

   浦春月

  もしほやくうらわのけふりつつきなを かすみてかくせはるの夜の月

   夢中恋

  さめてこそおもひのたねとなりにけれ かりそめぶしのゆめのうきはし

   後朝恋

  かきやりし涙のとこのあさねがみ おもひのすちはわれぞまされる

大石信濃守、父の三十三回忌とて、さまさまの追修をいたしけるに、ききおよひ侍りければ、小経を花の技につけて送り侍るとて

  ちりにしは三十三とせの花のはる けふこのもとにとふをまつらん

むさし野のすえに、浜さき[9]といへるさと侍り。かしこにまかりて

  むさし野をわけつつゆけば浜さきのさととはきけどたつなみもなし

此ほとなかくすみなれ侍りける旅宿をたちて甲州へおもむき侍りけるに、坊主の、ことのほかに名残をおし見侍りければ、しばらく馬をひかへてよみつかはしける

  たひだちてすすむるこまのあしなみも なれぬるやとにひくこころかな

  • 甲斐国→上野国→下野国→陸奥国(松島まで)

注記

  1. 大月隆『廻国雑記』文学同志会、明治32年9月、pp.106-139を底本としたが、文字は新字体とし、一部句読点を変更した。また、当郡と関係のないエリアは地名のみを記した。
  2. 志木市宗岡。当時は入間郡宗岡村である。
  3. ここでいう大塚は、現志木市柏町五丁目と幸町二丁目にまたがる大塚エリアという説が有力になっている。大塚にはジゴク谷(十玉谷、地獄谷)と呼ばれる谷があり、十玉坊という修験道場があったとされる。なお、十玉坊は後に富士見市水子、清瀬市芝山、富士見市下南畑へと移転した。
  4. 大石顕重。志木市の長勝院がこの大石信濃守の館の跡ともいわれる。
  5. 新座市野寺。満行寺が野寺の地名の由来である。
  6. 新座市野火止。平林寺境内に野火止塚があるが、この当時はまだ平林寺が当所に移転してきておらず、塚だけがあった。
  7. 朝霞市膝折。
  8. 東村山市久米川。このエリアでは柳瀬川はかつてくめくめ川と呼ばれていた。
  9. 朝霞市浜崎。