日本鉄道史
鉄道省『日本鉄道史 下篇』(大正十年(1921)8月31日発行)より、東上鉄道(東武東上線の前身)、武蔵野鉄道(西武池袋線の前身)に関する記載を現代語訳して掲載する。なお、西武新宿線・JR武蔵野線・有楽町線・副都心線の前身となる路線はこの時代にはまだ存在しない。
第二十章 私設鉄道
第三節 新設鉄道
第八 東上鉄道
免許
明治三十六年12月、東京市 千家尊賀ほか33名は東上鉄道を発起した。この線路は日本鉄道線巣鴨から大和田を経て川越に至り、松山、児玉、藤岡、飯塚を経て渋川に達する。74マイル[1]あまり(約119km)、資本金を600万円とした。
四十一年10月、仮免許を受けた。
四十四年11月、役員を選挙し、会社の位置を東京市本所区小梅瓦町に定め、資本金を450万円に改め、本免許を申請した。また、池袋・向原間軽便鉄道1マイルあまり(約1.6km)の免許を申請した。
大正元年11月16日、小石川(起点を巣鴨から改めた)・渋川間76マイルあまり(約122km)に対する本免許を受けた。また、同月30日、池袋・向原間の軽便鉄道の免許を受けた。
大正三年4月18日、川越・田面沢間1マイル31チェーン(2.03km)を軽便鉄道として免許された。
営業開始
大正三年5月1日、下板橋・川越間18マイル23チェーン(29.43km)が開通。同日、軽便鉄道池袋・下板橋(向原)間1マイル28チェーン(2.2km)、川越・田面沢間1マイル36チェーンが開通した。
大正五年10月27日、川越町・坂戸町間5マイル53チェーン(9.11km)が開通し、同字に軽便鉄道川越町・田面沢間の一部を廃した。東上鉄道の旅客賃金は並等1マイル2銭、特等をその5割増しとした。
軽便鉄道に指定
東上鉄道は大正七年3月27日、軽便鉄道法により、主務大臣の指定を受け、それ以降は同法に依拠するものとなった。
営業状態
会社の資本金は450万円で、大正六年度までに161万4207円を払い込み、その建設費は186万7940円で、借入金その他によって資本の不足を整理した。同年度における車両は、機関車五両、客車16両、貨車50両で、旅客75万8149人、貨物14万2079トンを輸送し、営業収入は19万5649円、営業費は13万9705円、益金は建設費の2分5厘に相当し、払込株金に対し両季3分あまりを配当した。
役員
明治四十四年11月創立総会において、原六郎、益田太郎、中島伊平、上野伝五右衛門、加藤政之助、吉野伝治、根津嘉一郎を取締役に、細野二郎、粕谷義三、稲茂登三郎、星野仙蔵を監査役に選挙し、根津嘉一郎を社長とし、吉野伝治を常務取締役とした。
その後、多少の更迭はあったが、大正六年度末にあっては取締役社長根津嘉一郎、常務取締役吉野伝治、取締役原邦造、中島伊平、上野伝五右衛門、監査役粕谷義三、稲茂登三郎が在任している。
第二十一章 軽便鉄道
第二節 軽便鉄道法による鉄道
武蔵野鉄道
武蔵野鉄道(株式会社)は埼玉県入間郡飯能町の出身者 阪本喜一の提唱によるものである。その目的は飯能地方を交通上において東京に近邇させ、あわせて従来河流によって迂回して搬出させられた貨物を直接に鉄道によって搬出させようとすることにあった。
明治四十四年、有志者にはかり、2月17日横浜市平沼専蔵ほか74名を発起人とし、巣鴨飯能間の免許を申請した。10月18日にはこれを受け、そこから工事を起こした。
大正四年4月15日、池袋・飯能間27マイル39チェーン(44.24km)が開通し、5月には国有鉄道線と連帯運輸を通した。
乗車賃金は3等1マイル1銭9厘の率とし、2等をその5割増しとしていたが、大正七年7月、3等の率を2銭4厘に改めた。
会社の資本金は当所75万円であったが、四十五年3月、これを100万円とした。大正七年においては払込額89万6800円に達し、社債金30万円、借入金25万0842円を有する。同年の建設費は136万4803円にのぼる。車両は機関車6両、客車19両、貨車80両で、旅客70万4686人、貨物15万8799トンを輸送し、営業収入は23万2046円。営業費は14万7866円で、益金は建設費の6分2厘に相当する。払込株金に対し上半季4分、下半季4分4厘を配当した。会社の決算期は暦年に基づき、両分して上下半季とする。
会社創立以来、平沼専蔵が取締役社長であったが、大正二年4月死去し、11月小能五郎が取締役社長となった。そして瀬下秀夫が創立以来専務取締役として在任していたが、7年2月に死去し、それから専務取締役を置かない。
東上鉄道
東上鉄道(株式会社)は施設鉄道法により大塚・渋川町間を免許され、また軽便鉄道法により大正元年11月30日、池袋・下板橋間1マイル28チェーン(2.17km)、三年4月18日川越・田面沢間1マイル36チェーン(2.33km)を免許された。三年5月1日、池袋・田面沢間を開業した。
五年10月27日、川越町・坂戸町間5マイル53チェーン(9.11km)を開業した。同時に川越町・田面沢間を廃した。
軽便鉄道法による営業は池袋・下板橋間1マイル28チェーン(2.17km)のみとなったが、大正七年3月27日、下板橋・川越町間、川越町・坂戸町間、未開業区間ともに軽便鉄道法により指定された。
開業線は25マイル23チェーン(40.70km)で、未開業線は坂戸町・渋川間51マイル43チェーン(82.94km)、小石川・下板橋間1マイル57チェーン(2.76km)である。
乗車賃金は並等2銭の率であったが、大正七年7月に2銭4厘とし、特等を廃した。
会社の資本金450万円に対し大正七年度までに165万0822円を払い込み、同年度の建設費は180万7175円で、車両数は前年と同じである。七年度の運輸数量は旅客76万4878人、貨物12万8588トンで、同年度の営業収入24万0252円より営業費14万7794を差し引いた益金は建設費の4分9厘に相当し、払込株金に対し上半季3分9厘、下半季5分を配当した。
七年度においては社長・根津嘉一郎、常務取締役・吉野伝治が在任している。
書誌・注
- ↑ 初期の鉄道の距離表示は、イギリス式のマイル(哩)・チェーン(鎖)・リンク(輪)であった。1マイル=80チェーン、1チェーン=100リンクとなる。なお、1マイルは1.609344kmである。以下、換算した数値を小数点第3位を四捨五入して( )内に示す。
旧新座郡エリア付近の鉄道路線・駅 |
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