高麗福信
高麗 福信(こま の ふくしん)(和銅二年(709)~延暦八年(789)10月8日)は、高句麗王族の子孫と伝えられる奈良時代の公卿である。新羅郡が置かれた当時の武蔵守であった[1]。氏姓は、肖奈公(しょうな(せな)のきみ)[2]⇒肖奈王(しょうなのこにきし)⇒高麗朝臣(こまのあそみ)⇒高倉朝臣(たかくらのあそみ)と変遷した。祖父・肖奈福徳は高句麗王族の子孫と伝えられる。
なお、同名の鬼室福信(扶余福信)は百済の将軍であり、別人である。
年譜
『続日本紀』の記載を中心にまとめた。なお、続日本紀ではすべて「背奈」となっているが、「肖奈」に修正する。
- 武蔵国高麗郡出身
- 少年のころ、叔父・肖奈行文に従って上京
- 上京後、石上衢(いそのかみのちまた)で相撲を取って勝利した。その評判が朝廷に届き、召されて内豎所に近侍することを命ぜられた。
- 霊亀二年(716)五月辛卯- 駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野、七国の高麗人1799人を武蔵国に移し、始めて高麗郡を置いた。
- 天平十年(738)三月辛未(3日) - 従六位上 肖奈公福信(せなのきみ ふくしん)に外従五位下を授ける。
- 天平十一年(739)七月乙未(5日) - 外従五位下 肖奈公福信に従五位下を授ける。
- 天平十五年(743)五月癸卯(5日) - 従五位上 紀朝臣清人・石川朝臣年足・肖奈王福信[3]にそれぞれ正五位下を授ける。
- 天平十九年(747)六月辛亥(7日) - 正五位下 肖奈福信、外正七位下 肖奈大山、従八位上 肖奈広山ら8人に肖奈王(しょうなのこにきし)姓を賜う。
- 天平二十年(748)二月己未(19日) - 正五位下 巨勢朝臣堺麻呂・肖奈王福信にそれぞれ正五位上を授ける。
- 天平勝宝元年(749)七月甲午(2日) - (孝謙天皇即位)正五位上 巨勢朝臣堺麻呂・肖奈王福信にそれぞれ従四位下を授ける。
- 八月辛未(10日) - 従四位下 百済王孝忠、式部大輔 従四位下 巨勢朝臣堺麻呂、中衛少将 従四位下 肖奈王福信にそれぞれ少弼[6]を兼ねさせる。
- 十一月己未(29日) - 従四位下大伴宿禰古慈悲・肖奈王福信にそれぞれ従四位上を授ける。
- 天平勝宝二年(750)正月丙辰 - 従四位上 肖奈王福信ら6人に高麗朝臣(こまのあそみ)姓を授ける。
- 天平勝宝八歳[7](756)五月丙辰(3日) - (聖武上皇崩御)従三位 多治比真人広足・百済王敬福・正四位下 塩焼王・従四位下 山背王・正四位下 大伴宿禰古麻呂・従四位上 高麗朝臣福信・正五位上 佐伯宿禰今毛人・従五位下 小野朝臣田守・大伴宿禰伯麻呂を山作司[8]とする。六位以下は20人。
- 東大寺献物帳に、6月21日に山背守を兼任、7月8日に武蔵守を兼任と見える。
- 天平宝字元年(757)五月丁卯(20日) - 従四位上 文室真人大市・阿倍朝臣沙弥麻呂・高麗朝臣福信にそれぞれ正四位下を授ける。
- 七月戊申(2日) - (橘奈良麻呂の乱)内相 藤原朝臣仲麻呂が反乱について奏上し、内外の門を警衛させた。また、高麗朝臣福信らを遣わし、兵を率いて、小野東人・答本忠節らを追捕させ、すべて捕えて左衛士府に拘禁した。
- 七月庚戌(4日) - 賀茂角足が、高麗福信・奈貴王・坂上苅田麻呂・巨勢苗麻呂・牡鹿嶋足に額田部宅で酒を飲ませていたことが判明(賀茂角足は橘奈良麻呂陣営に属しており、高麗福信らが武力出動できないようにしようとして酒宴に呼んでいた)。
- 天平宝字四年(760)正月戊寅(16日) - 正四位下 高麗朝臣福信を信部大輔とした。
- 四月戊午 - 帰化新羅人131名を武蔵国に住まわせた。
- 天平宝字六年(762)12月14日に内匠頭と見える。
- 天平宝字七年(763)正月壬子(9日) - 正四位下 高麗朝臣福信を但馬守とする。
- 天平宝字八年(764)十月癸未(20日) - 正四位下 高麗朝臣福信を但馬守とする。
- 天平神護元年(765)正月己亥(7日) - 正四位上 文室真人大市・正四位下 高麗朝臣福信にそれぞれ従三位を授ける。
- 神護景雲元年(767)三月己巳 (20日)- 始めて法王宮職(ほうおうぐうしき)を置く[9]。造宮卿 但馬守 従三位 高麗朝臣福信を兼任の大夫とし、大外記 遠江守 従四位下 高丘富連比良麻呂を兼任の亮とし、勅旨大丞 従五位上 葛井連道依を兼任の大進とした。他に、少進一人、大属一人、少属二人。
- 宝亀元年(770)八月癸巳(4日) - (称徳天皇崩御)従三位 文室真人大市・高麗朝臣福信・藤原朝臣宿奈麻呂・藤原朝臣魚名・従四位下 藤原朝臣楓麻呂・藤原朝臣家依・正五位下 葛井連道依・石川朝臣垣守・従五位下 太朝臣犬養、その他六位11人を御装束司とする。
- 八月丁巳(28日) - 造宮卿 従三位 高麗朝臣福信に武蔵守を兼任させる。
- 宝亀二年(771)十月己卯 - (武蔵国の所属が東山道から東海道に変更される。)
- 宝亀四年(773)二月壬申 - 造宮卿 従三位 高麗朝臣福信に楊梅宮を作らせ、この宮が完成したため、息子の石麻呂に従五位下を授けた。この日、天皇は楊梅宮を訪ねた。
- 宝亀七年(776)三月癸巳(6日) - 造宮卿 従三位 高麗朝臣福信に近江守を兼任させる。
- 宝亀十年(779)三月戊午(17日) - 従三位 高麗朝臣福信に高倉朝臣の姓を授ける。
- 天応元年(781)五月乙丑(7日) - 従三位 高倉朝臣福信を弾正尹とする。
- 十二月丁未(23日) - 従三位 大伴宿禰家持・高倉朝臣福信・従四位下 吉備朝臣泉・石川朝臣豊人・正五位下 大神朝臣末足・紀朝臣犬養・従五位上 文室真人高嶋・従五位下 文室真人子老・紀朝臣継成・多治比真人浜成を山作司とする。六位以下は9人。
- 延暦二年(783)六月丙寅(21日) - 弾正尹 従三位 高倉朝臣福信に武蔵守を兼任させる。
- 延暦四年(785)二月丁未 - 弾正尹 従三位 兼武蔵守 高倉朝臣福信、辞職を上表し、詔にて許される。御杖と衾を賜る。
- 延暦八年(789)十月乙酉(8日) - 散位 従三位 高倉朝臣福信が亡くなった。81歳。
続日本紀 延暦八年10月17日条
延暦八年十月乙酉(17日) 散位従三位高倉朝臣福信薨。福信武蔵国高麗郡人也。本姓背奈。其祖福徳属唐将李勣抜平壌城。来帰国家。居武蔵焉。福信即福徳之孫也。小年随伯父背奈行文入都。時与同輩。晩頭往石上衢。遊戯相撲。巧用其力。能勝其敵。遂聞内裏。召令侍内竪所。自是著名。初任右衛士大志。稍遷。天平中授外従五位下。任春宮亮。聖武皇帝甚加恩幸。勝宝初。至従四位紫微少弼。改本姓賜高麗朝臣。遷信部大輔。神護元年。授従三位。拝造宮卿。兼歴武蔵近江守。宝亀十年上書言。臣自投聖化。年歳已深。但雖新姓之栄朝臣過分。而旧俗之号高麗未除。伏乞。改高麗以為高倉。詔許之。天鷹元年。遷弾正尹兼武蔵守。延暦四年。上表乞身。以散位帰第焉。薨時八十一。
延暦八年(789)10月17日 散位(位はあるが職がない者)である従三位・高倉朝臣福信が亡くなった。福信は武蔵国高麗郡の人である。本姓は肖奈であった。祖父の福徳は唐の将軍・李勣が平壌城を奪取したときに服属した。日本に来て、武蔵に住んだ。福信は福徳の孫である。若い時に伯父の肖奈行文に従って都に入った。その後、同輩とともに夜、石上衢(いそのかみのちまた)へ行き、相撲をとった。その力は巧みで、敵に勝った。この評判は内裏にも伝わり、召して内竪所(ないじゅどころ)で働かせることにした。そのため、おのずから著名になった。はじめ、右衛士の大志(四等官)に任ぜられた。それから変遷があり、天平年間(729~749)には従五位下が授けられ、春宮亮(とうぐうのすけ=春宮の次官)となった。聖武天皇の寵愛を受け、天平勝宝元年(749)には従四位紫微少弼に至った。本姓を改め、高麗朝臣を賜り、信部大輔(中務省首席次官)になった。天平神護元年(765)に従三位を授かり、造宮卿を拝した。また、兼任で武蔵守や近江守を歴任した。宝亀十年(779)に上書して「臣(わたし)は自ら聖なる化(帝の支配下)に身を投じましたが、すでに年齢も重ねております。新しく与えられた姓は栄光ではありますが、朝臣は過分であり、また、古い習慣で使っている高麗の号がまだ除かれておりません。高麗を高倉に改めていただきますよう、伏して乞うものであります」と述べた。帝は詔してこれを許した。天応元年、弾正尹兼武蔵守となった。延暦四年、辞職を上表し、散位となって隠居した。亡くなった時には81歳であった。
武蔵守着任期間
- (天平勝宝二年(750)1月:肖奈王から高麗朝臣に改姓)
- 天平勝宝八歳(756)~(時期不明) 〈孝謙天皇〉
- 「天平勝宝八歳(七五六)、聖武上皇が没したのをうけて、諸国国分寺の仏像・堂舎の造営を促進するようにとの命令が出された。武蔵国分寺の伽藍の造営は、出土する瓦の様式などから、そのころ武蔵守を兼ねていた武蔵出身の高麗福信(こまのふくしん)の主導によって進められたものと考えられている」(『国分寺市史』上 1986)[10]
- 天平宝字二年(758)八月癸亥(24日) - 帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し、ここに始めて新羅郡を置く。
- 天平宝字四年(760)四月戊午 - 帰化新羅人131名を武蔵国に住まわせた。
- 天平宝字五年(761)正月乙未 - 美濃・武蔵2国の少年、国ごとに20人に、新羅語を習わせる。新羅を征するためである。
- 宝亀元年(770〉8月28日~宝亀五年(774)3月6日 ※造宮卿 従三位を兼ねる 〈光仁天皇〉
- (宝亀十年(779)3月17日:高麗朝臣から高倉朝臣に改姓)
- 延暦二年(783)6月21日~延暦四年(785)2月辞任 ※弾正尹 従三位を兼ねる 〈桓武天皇〉
考察
高句麗の血を引く高麗福信が、新羅郡が初めて置かれたときの武蔵守だったことは、当時の日本の対外政策上も重要な意味を持っていると思われる。668年に高句麗が滅亡しており、高麗氏はその亡命者であった。朝鮮半島中・南部は新羅が支配していたが、日本との関係が悪化していた。しかも、新羅は国力が疲弊し、日本への亡命者も多く存在した。新羅からの帰化人(渡来人)を武蔵国新座郡に置き、朝廷に忠誠を誓っている高麗福信にそれを治めさせたのは、監視・監督の意味合いもあったと考えられる。
また、高麗(こま)氏から高倉(たかくら)氏への改姓が行われているが、高倉を「こうくら」と読めば高句麗(こうくり)と音が通じることからこの文字が選ばれたのではないかと考える。日本の各地で高句麗・高麗と関連する地域に「高倉」「高座」地名が見られる(相模国高座郡など)。なお、倉も座も「くら」である。このように高句麗・高麗⇒高倉・高座に置き換わる例があったため、同じ朝鮮半島に由来する新羅郡も新倉・新座の文字に置き換えられていったのではないだろうか。
脚注
- ↑ 本サイトでは、新羅郡が置かれた当時の姓を重視し、「高麗福信」を見出し語として採用する。
- ↑ Wikipediaを含め、一般的に「背奈」と書かれている情報が多いが、佐伯有清『背奈氏の氏称とその一族』(1991)によれば、本来は背奈(せな)ではなく肖奈(せうな/しょうな)であったものが誤写されたと考えるべきだという。高句麗の五部(部族)の一つが消奴部であったともいい(奈と奴はどちらもナである)、五部の名称を名乗る人物も多々あった。また、消奴という地名もあったという。したがって、この説は非常に説得力があると思われる。本稿では肖奈を採用した。
- ↑ この段階ではまだ肖奈「公」のはずである。
- ↑ この段階ではまだ肖奈「公」のはずである。
- ↑ 春宮(とうぐう)は皇太子のことであり、このときの皇太子は阿倍内親王(のちの孝謙天皇)であった。春宮亮は春宮坊の次官。
- ↑ 弾正台の次官
- ↑ 天平勝宝七年一月四日に「年」を「歳」と改められた。ただし、天平宝字に改元した際にまた「年」に戻っている。
- ↑ 陵墓造営担当。
- ↑ 道鏡が法王として家政と政務を執行した官庁。
- ↑ 『多摩市史 通史編1』国分寺の造営