武蔵守
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武蔵守(むさしのかみ)は、武蔵国の国司の長である。
歴代の武蔵守
- 引田祖父(703年〈大宝3年〉7月任 -)従五位下、『続日本紀』。
- 当麻桜井(708年〈和銅元年〉3月任 - 715年〈霊亀元年〉2月卒)正五位下、『続日本紀』。
- 大神狛麻呂(715年〈霊亀元年〉5月任 - )正五位上、『続日本紀』。
- 多治比縣守(719年〈養老3年〉7月見)正四位下、『続日本紀』。
- 布施国足(731年〈天平3年〉5月任 - )従五位上、『続日本紀』。
- 粟田人上( - 738年〈天平10年〉6月卒)従四位下、『続日本紀』。
- 多治比広足(738年〈天平10年〉8月任 - )正五位下、『続日本紀』。
- 紀清人(746年〈天平18年〉5月任 - )従四位下、『続日本紀』。
- 平群広成(752年〈天平勝宝4年〉5月任 - 753年〈天平勝宝5年〉正月卒)従四位上、『続日本紀』。
- 石川麻呂(754年〈天平勝宝6年〉9月任 - )従四位上、『続日本紀』。
- 高麗福信(756年〈天平勝宝8歳〉 - )。
- 石川名人( - 764年〈天平宝字8年〉3月卒)従四位下、『続日本紀』。
- 石川人成(764年〈天平宝字8年〉4月任 - )正五位上、『続日本紀』。
- 巨勢公成(766年〈天平神護2年〉3月任 - )従五位下、『続日本紀』。
- 藤原雄田麻呂(768年〈神護景雲2年〉2月見 - )正五位下、『続日本紀』。
- 高麗福信(770年〈宝亀元年〉8月任 - )造宮卿 従三位、『続日本紀』。
- 藤原浜成(774年〈宝亀5年〉3月任 - )刑部卿 正四位下、『続日本紀』。
- 笠王(778年〈宝亀9年〉2月任 - )従五位下、『続日本紀』。
- 石川真守(781年〈天応5年〉5月任 - )正五位下、『続日本紀』。
- 高倉福信(783年〈延暦2年〉6月 再任 - 785年〈延暦4年〉2月辞)弾正尹 従三位。
- 石川垣守(785年〈延暦4年〉4月任 - )宮内卿 従四位上、『続日本紀』。
- 阿保人上(786年〈延暦5年〉8月任 - )従五位上、『続日本紀』。
- 石川豊人(788年〈延暦7年〉任 - )中宮大夫 従四位上 大蔵卿、『続日本紀』。
- 多治比宇美(791年〈延暦10年〉任 - )右中弁 正五位下、『続日本紀』。
- 藤原内麻呂(806年〈延暦25年〉1月28日任 - 806年〈延暦25年〉4月18日)従三位中納言、『日本後紀』
- 藤原真夏(807年〈大同2年〉6月20日任 - 807年〈大同2年〉4月26日)従四位下、『公卿補任』。
- 春原五百枝(807年〈大同2年〉8月20日任 - 807年〈大同2年〉8月26日)従四位上、『公卿補任』。
- 安倍鷹野(808年〈大同3年〉7月9日見 - 809年〈大同4年〉2月28日)正五位下、『日本後紀』。
- 礒野王(809年〈大同4年〉3月11日任 - )従五位下、『日本後紀』
- 吉備泉(810年〈大同5年〉7月16日任 - 814年〈弘仁5年〉閏7月8日)正四位下→正四位上参議、『公卿補任』。
- 中臣智治麻呂(810年〈弘仁元年〉9月任)従五位上、『日本後紀』。
- 坂上鷹養(813年〈弘仁4年〉1月任)正五位下、『日本後紀』。
- 大伴国道(825年〈天長2年〉1月11日 陸奥出羽按察使 兼任 - 826年〈天長3年〉1月21日 転、相模守)従四位上参議、『公卿補任』。
- 藤原綱継(826年〈天長3年〉1月21日任 - 826年〈天長3年〉3月3日転、相模守)従四位上、『公卿補任』。
- 大伴国道(826年〈天長3年〉3月3日 再任 - 826年〈天長3年〉8月28日)従四位上参議、『公卿補任』。
- 石川河主( - 830年〈天長7年〉12月27日 見)正四位上、『類聚国史』。
- 道野王(836年〈承和3年〉(月欠)任 - )従四位下、『日本文徳天皇実録』
- 百済王慶仲(839年〈承和6年?〉)従四位下、『続日本後紀』。
- 正道王(840年〈承和7年〉1月30日任 - 841年〈承和8年〉6月11日 卒)従四位下、『続日本後紀』。
- 源信(841年〈承和8年〉7月8日 任 - 842年〈承和9年〉7月 罷)正三位参議、『続日本後紀』。
- 田口佐波主(842年〈承和9年〉8月11日 任)従四位下、『続日本後紀』。
- 林常継(843年〈承和10年〉1月12日任)従五位下、『続日本後紀』。
- 佐伯利世(845年〈承和12年〉1月11日任 - 845年〈承和12年〉8月25日)正五位下
- (権守)丹墀門成(846年〈承和12年〉6月任・846年〈承和13年〉2月より守となる)従五位下、『続日本後紀』。
- 橘本継(849年〈嘉祥2年〉1月13日任 - )従五位下、『続日本後紀』。
- 丹墀石雄(850年〈嘉祥3年〉1月13日任 - )従五位上、『続日本後紀』。
- 文屋笠科(851年〈嘉祥4年〉1月16日任 - 〈斉衡元年〉8月卒)従五位上、『日本文徳天皇実録』。
- 良岑長松(858年〈天安2年〉1月16日任 - )従五位上、『日本文徳天皇実録』。
- (権守)房世王(858年〈天安2年〉2月5日任 - 858年〈天安2年〉3月8日転、越中守)従四位下、『日本文徳天皇実録』。
- (権守) 平春香(861年〈貞観3年〉2月16日 - )従五位上、『日本文徳天皇実録』。
- 藤原忠雄(862年〈貞観4年〉1月13日 - )従五位下、『日本三代実録』。
- (権守) 平有世(864年〈貞観6年〉1月16日 - )従五位上、『日本三代実録』。
- 橘春成(867年〈貞観9年〉1月12日任 - 同年2月11日罷)従五位上、『日本三代実録』。
- 藤原安棟(872年〈貞観9年〉2月11日任 - )従五位下、『日本三代実録』。
- 紀安雄(877年〈元慶元年〉(月欠)任 - )従五位上、『日本三代実録』。
- (権守)弘道王(880年〈元慶4年〉2月見 - )従五位上、『日本三代実録』。
- (権守)源行有(884年〈元慶8年〉2月見 - 885年〈仁和元年〉1月 罷)従五位上、『日本三代実録』。
- 藤原貞幹(885年〈元慶9年〉1月16日任 - )従五位上、『日本三代実録』。
- 源長淵(885年〈仁和元年〉2月20日任 - )従四位上、『日本三代実録』。
- 棟貞王(887年〈仁和3年〉5月13日任 - )従四位上、『日本三代実録』。
- 藤原邦基(906年〈延喜6年〉8月28日 - 910年〈延喜10年〉2月15日)『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原高風(917年〈延喜17年〉1月29日 - )正五位下。
- 高向利春(918年〈延喜18年〉2月29日 - )従五位下、『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原利仁(901年 - 923年〈延喜年間〉任)『大日本史』「国郡司表」。
- 小野隆泰(924年〈延長2年〉 - )
- 源仕
- 日奉宗頼(932年〈承平2年〉 - )
- 藤原善方(936年〈承平6年〉見)『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原維幾(936年〈承平6年〉任)『大日本史』「国郡司表」。
- (権守)興世王(「938年〈天慶元年〉2月 - 940年〈天慶3年〉2月」)『大日本史』「国郡司表」。
- 百済貞連(939年〈天慶2年〉5月17日任 - )従五位下、(「類聚符宣抄」『大系本』222頁)。
- 藤原秀郷(940年〈天慶3年〉3月9日任 - )兼下野守・叙従四位下、『大日本史』「国郡司表」。
- 平公雅(942年〈天慶5年〉任 - )『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原敏有
- (権守)源満仲(949年〈天暦3年〉3月 = 『平安遺文』補262に在任記事 )従五位上。
- 藤原斯生(969年〈安和2年〉3月 見)『大日本史』「国郡司表」。
- (権守)菅原幹正(993年〈正暦4年〉5月 見)『大日本史』「国郡司表」。
- 源満政従四位下
- 源満季従四位上
- 菅原修成(995年 - 996年?〈長徳年間〉見)、『大日本史』「国郡司表」。[11]
- 藤原寧親(996年〈長徳2年〉1月25日 - 999年〈長保元年〉10月19日)従五位下、『大日本史』「国郡司表」。
- 平行義(1004年〈寛弘元年〉7月 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- 源頼貞(1017年〈寛仁元年〉10月 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- (姓欠)為時(1018年〈寛仁2年〉3月 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- 源頼平
- 藤原惟経(1040年〈長暦4年〉1月25日 - )
- 菅原是綱(1075年〈承保2年〉5月 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原長賢(1091年〈寛治5年〉1月28日 - )
- 藤原成実(1095年〈嘉保2年〉 - 1102年〈康和4年〉7月11日)従五位下
- 藤原行実(1103年〈康和5年〉2月30日任 - 同年8月13日 卒)正四位下、『大日本史』「国郡司表」。
- 源顕俊(1103年〈康和5年〉11月1日任 - 「1107年〈嘉承2年〉7月24日」)従五位下→正五位下。
- 藤原長賢(1004年〈長治元年〉(月欠) 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- 源義家(1108年〈天仁元年〉8月 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- 高階経敏(1112年〈天永3年〉1月27日 - 1119年〈元永2年〉11月 能登守と為る)、『大日本史』「国郡司表」。
- (権守) 紀為宗(1116年〈永久4年〉1月 - 「1119年〈元永2年〉5月30日」)従五位下、『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原通基(1127年〈大治2年〉1月 見、 - 1127年〈大治2年〉12月 因幡守と為る)、『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原公信(1127年〈大治2年〉12月7日 - 「1129年〈大治4年〉7月3日」)。
- (権守) 橘盛賢(1129年〈大治4年〉2月17日 - )従五位下。
- (権守)橘章友(1129年〈大治4年〉10月 任)、『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原信輔(1135年〈保延元年〉4月 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- (権守)惟宗貞光(1137年〈保延3年〉1月 30日 見)、『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原季行(1142年〈康治元年〉12月30日 任 - 1150年〈久安6年〉7月28日 土佐守と為る)従五位上、『大日本史』「国郡司表」。
- 藤原信頼(1150年〈久安6年〉7月28日 - 1157年〈保元2年〉8月23日)従五位上→従四位上。
- (権守) 藤原有盛(1153年〈仁平3年〉1月22日 - 1155年〈久寿2年〉10月26日)
- 藤原信説(1157年〈保元2年〉 - )従五位上
- 藤原(名欠)(1159年〈平治元年〉5月 見、『大日本史』「国郡司表」。
- 平知盛(1160年〈永暦元年〉2月28日 - 1166年〈仁安元年〉12月 罷)従五位下→正五位下、『大日本史』「国郡司表」。
- 平知重(1166年〈仁安元年〉12月 任)『大日本史』「国郡司表」。
- 平知盛(1167年〈仁安2年〉2月11日 - 同年12月30日)従五位下。
- (権守)三善盛俊(1179年〈治承3年〉2月 見)『大日本史』「国郡司表」。
- 平知度(1180年〈治承4年〉9月 見)『大日本史』「国郡司表」。
- 平知章(1183年〈寿永2年〉7月 見 - 同年8月6日)従五位上[14]。
- 一条忠頼(1184年〈寿永3年〉6月 見『大日本史』「国郡司表」、1184年〈元暦元年〉6月16日、源頼朝の命にて殺さる、『吾妻鏡』)。
- 平賀義信(1184年〈元暦元年〉6月20日 任 - 1195年〈建久6年〉)従五位下、『大日本史』「国郡司表」。
- 足利義兼
- 平賀惟義正四位下
- 平賀朝雅従五位上
- 足利義氏
- 北条時房(1210年〈承元4年〉>1月14日 - 1217年〈建保5年〉12月12日)従五位下
- 大江親広(1217年?~1219年〈承久元年〉)
- 北条泰時(1219年〈承久元年〉11月13日 - 1238年〈暦仁元年〉4月6日)従五位上→従四位上
- 北条朝直(1238年〈暦仁元年〉4月6日 - 1243年〈寛元元年〉7月8日)従五位上→正五位下
- 北条経時(1243年〈寛元元年〉>7月8日 - 1246年〈寛元4年〉4月19日)正五位下
- 北条朝直(1246年〈寛元4年〉4月15日 - 1256年〈康元元年〉7月20日)正五位下
- (権守)北条時広(1247年〈宝治元年〉3月6日 - 1258年〈正嘉2年〉1月13日)従五位下
- 北条長時(1256年〈康元元年〉7月20日 - 1264年〈文永元年〉7月3日)従五位下→従五位上
- 北条宣時(1267年〈文永4年〉6月23日 - 1273年〈文永10年〉7月1日)従五位下
- 北条義政(1273年〈文永10年〉7月1日 - 1277年〈建治3年〉4月4日)従五位下
- 北条宗政(1277年〈建治3年〉6月17日 - 1281年〈弘安4年〉8月9日)従五位下
- 北条時村(1282年〈弘安5年〉8月23日 - 1304年〈嘉元2年〉6月6日)従五位下→従四位下
- 北条久時(1304年〈嘉元2年〉6月6日 - 1307年〈徳治2年〉2月9日)従五位上→正五位下
- 北条煕時(1307年〈徳治2年〉2月9日 - 1311年〈応長元年〉10月24日)正五位下
- 北条貞顕(1311年〈応長元年〉10月24日 - 1319年〈元応元年〉2月)正五位下→従四位下
- 北条守時(1319年〈元応元年〉2月18日 - 1326年〈嘉暦元年〉8月)正五位下
- 北条貞将(1326年〈嘉暦元年〉9月4日 - 1333年〈正慶2/元弘3年〉5月22日)従五位下か?
- 足利尊氏(1333年〈正慶2/元弘3年〉8月5日 - 1334年〈建武元年〉9月4日)正三位
- (権守)高師直従五位下
- 細川頼之(1368年〈応安元/正平23年〉4月5日 - 1379年〈康暦元/天授5年〉閏4月14日)従五位下
- 新田義宗
- 新田貞方
- 細川勝元(1449年〈文安6年〉4月14日 - )従五位下
- 細川高国(1521年〈大永元年〉11月12日 - 1525年〈大永5年〉4月21日)従五位下
- 葛西宗清