武蔵守護
守護(しゅご)は、鎌倉幕府および室町幕府が諸国に設置した軍事・行政官である。
武蔵国は東国でも重要視された国であるため、鎌倉時代には守護が置かれず、室町時代にはやがて関東管領が武蔵守護の役目を果たすようになった。
守護の基本的な職務
鎌倉時代:文治元年(1185年)、源頼朝が後白河法皇から守護・地頭の設置を認められた。当初の守護の主な任務は、国内の治安維持と御家人の統率であり、「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」と呼ばれる以下の三つの権限に限定されていた。
- 大番催促(おおばんさいそく): 京都大番役(きょうとおおばんやく)など、御家人に課せられた軍役の催促と統率。
- 謀反人の逮捕(むほんにんのたいほ): 幕府に対する謀反を企てた者の捜索と逮捕。
- 殺害人の逮捕(さつがいにんのたいほ): 殺人事件の犯人の捜索と逮捕。
鎌倉時代の守護は、国司(朝廷が任命した地方官)の権限を完全に奪うものではなく、あくまで軍事・警察的な役割が中心であった。荘園や公領への介入も限定的で、地頭の行動を監督する立場にあった。
室町時代:守護の権限は大幅に拡大し、その性格も大きく変化した。
- 使節遵行(しせつじゅんぎょう): 幕府の命令を現地で強制執行する権限。これにより、守護は所領紛争の解決などに直接介入できるようになった。
- 闕所地処分権(けっしょちしょぶんけん): 罪を犯した者の所領を没収し、幕府の裁可のもとに他の者に与える権限。
- 半済(はんぜい): 荘園や公領からの年貢の半分を、軍事費調達の名目で徴収する権限。当初は戦時限定だったが、次第に恒常化した。
- 段銭・棟別銭の徴収(たんせん・むなべつせんのちょうしゅう): 田畑の面積や家屋の数に応じて課される臨時税を徴収する権限。
- 守護請(しゅごうけ): 守護が国衙領(国司の管轄する領地)の徴税権などを請け負うこと。これにより、守護は国司の権能を実質的に吸収していった。
これらの権限拡大を通じて、守護は単なる幕府の地方官から、一国を実質的に支配する領主へと成長していった。これを守護大名と呼ぶ。守護大名は国内の武士(国人)を家臣団として組織し、独自の支配体制を築き上げた。応仁の乱以降は、守護大名同士の争いや、家臣・国人による下剋上も頻発し、戦国時代へと移行していくことになる。
武蔵国の守護
「鎌倉時代を通じて武蔵の守護何某と明記した史料は全くない、又守護職権の中核である検断権を何人が有したかも推知すべき手がかりがない。」「諸国守護の権限である持統御家人の所役指揮が武蔵に在っては国司によって執行された」「(康元元年)当時既に武蔵国務が北条氏家督の地位と不可分に結びついてゐた事はこれによつて疑ひない。恐らくこの新しい原則は時房の死後、泰時・経時・時頼の間に成立したものであつて、今後北条氏の滅亡迄の長い期間を律する事となつた」(『鎌倉幕府守護制度の研究』[1])
鎌倉時代
鎌倉時代には、将軍が知行国主(国司の任命権を持つ者)であった。武蔵国は武蔵守が守護の役割を兼務することになった(つまり「武蔵守護」はいなかった)。
室町時代
足利尊氏や二代将軍義詮は、源頼朝の例にならって武蔵国を知行国として拝領し、国務は北条氏の例にならって自ら掌握しようとした。足利尊氏自身は武蔵守ではあったが、武蔵守護であったという記録はない。一方で将軍の地位は上昇し、執事や管領が武蔵守を受領するようになる。
その後、室町幕府では武蔵の国務は武蔵守護が行うこととなったと考えられる。武蔵守護は鎌倉公方の統轄下に置かれ、鎌倉公方の執事・関東管領が任命された可能性がある。つまり、室町時代には、鎌倉時代のような武蔵守は存在しなくなり、代わりに関東管領が武蔵守護としての役割を果たすようになっていった。
守護 | 開始 | 中間 | 終わり | 守護代 |
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上杉重能[2] | 元弘三年12月20日 建武w元年2月6日 建武元年3月28日 |
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一色範氏[3] | 建武元年7月14日 建武元年9月8日 |
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高重茂 | 建武四年(1337年)4月 貞和二年(1346年)9月 |
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高師冬 | 暦応四年(1341年)5月 康永三年2月 |
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高師直 | 観応元年(1350年)8月 | 観応二年(1351年)2月 | 薬師寺公義 | |
上杉憲顕 | 観応二年(1351年)2月 | 観応二年(1351年)12月 | 上杉憲将 | |
仁木頼章 | 正平六年(1351年)12月 | 文和元年(1352年)12月 | 吉江中務 | |
仁木義氏 | 観応三年(1352年)7月2日 文和元年(1352年12月20日) |
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畠山国清 | 延文二年(1357年)12月 | 康安元年(1361年)12月失脚 | ||
高師有 | 康安二年(1362年)5月 | 高坂兵部大輔 | ||
上杉憲顕 | 貞治二年(1363年)3月 | 応安元年(1368年)9月没 | 上杉能顕 | |
上杉能憲[4] | 応安元年(1368年)9月 | 永和四年(1378年)4月没 | 大石隼人祐能憲 | |
上杉憲春[5] | 永和四年(1378年)4月 | 康暦元年(1379年)3月没 | 長尾入道景守 | |
上杉憲方 | 康暦元年(1379年)3月 | 応永元年(1394年)10月没 | 大石遠江入道聖顕、大石遠江太郎 | |
(犬懸)上杉朝宗 | 応永二年(1395年)3月 | 応永一二年(1405年)9月 | 千坂越前守、長尾藤景、埴谷備前入道 | |
(山内)上杉憲定 | 応永一二年(1405年)10月 | 応永一八年(1411年)正月 | ||
(犬懸)上杉氏憲 | 応永一八年(1411年)2月 | 応永二二年(1415年)5月 | 長尾氏春 | |
(山内)上杉憲基 | 応永二二年(1415年)5月 | 応永二四年(1417年)4月辞 | ||
(山内)上杉憲基 | 応永二四年(1417年)5月 | 応永二六年(1418年)正月没 | 長尾忠政(芳伝) | |
(山内)上杉憲実 | 応永二六(1419年)3月 | 永享一一年(1439年)6月 | 長尾忠政(芳伝)、大石遠江入道道守、大石石見守憲重 | |
上杉清方 | 永享一一年(1439年)6月 | 嘉吉元年(1441年)12月 | 長尾景仲 | |
上杉憲忠 | 嘉吉三年(1443年)3月 | 享徳三年(1454年)12月没 | ||
上杉房顕 | 享徳三年(1454年)12月 | 文正元年(1466年)2月没 | 長尾景棟 | |
上杉顕定 | 文正元年(1466年)2月 | 文明一三年(1481年)3月 |