武蔵国新座郡村誌/志木宿
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< 武蔵国新座郡村誌
- 現代語訳=シラキのコホリのツカサ
志木宿(しきしゅく)
- 本村はいにしえ広沢庄・野方領に属する(風土記に「舘之郷」と載せ、また村吏は三芳野の里という)。
- 昔は舘村と称し、一村であったが、寛永二十年、4分して舘・中野・引又・針ヶ谷とした。
- 元禄六年、針ヶ谷村を入間郡に編入した(風土記 入間郡針ヶ谷村の条に「針ヶ谷村は郡の巽(南東)にあり、三芳野の郷仙波庄という。当時は元新座郡舘村の地であったが、柳瀬川からこちらを割いて別村とし、当郡に属した」と載せている)。
- 寛政十二年三月、中野を舘に合わせた(風土記には中野・引又も小名とするが、その実はそれぞれ別村の姿をなしていた)。
- 明治七年7月、引又町を舘村に併せ、また一村とし、志木宿と改称した(和名抄所載本郡のうち、郷名に志木があるため、この名に改めたが、その由縁を今遡って調べると、この辺を志木郷に属させていたという確証はない。ただ本郡中にかつてこの郷名があったので命名したという)。
疆域
東は本郡 宮戸・田島の両村に接し、野火止村・大和田町に隣り、西は入間郡竹間沢・針ヶ谷の2村で、西北の間は入間郡水子村に隣り、山村共に区切りは柳瀬川である。また東北は新河岸川を隔てて入間郡宗岡村に対している。
幅員
- 東(宮戸村との境、字田子山から)西(針ヶ谷村との境、字小荷田に至る)20町40間
- 南(野火止村との境、字陣場から)北(水子村との境、字高橋に至る)12町13間
管轄沿革
- 天正十八年庚寅、徳川氏の所有となり、その臣、福山月㑪に賜った。
- 元和の初め、本多上野介正純の提封とした。
- 元和九年、収めて直轄とする。
- 寛永の末から旗下士に割り与えた。
- 正保の頃は、村高718石9升9合のうち、480石7斗は山中与五兵衛、各100石は新實七右衛門・大河内兵左衛門の食采であり、残り37石3斗9升9合は代官の支配であった。
- 元禄十一年戊寅正月、合わせて松平美濃守吉保 川越城主(元の名は柳沢出羽守保明)の提封とした。
- 寛永二年乙酉3月、松平右京大夫輝貞(上野高崎城主)に代わり、これを世襲する。
- 維新の際は石高1098石7斗8升8合あった。
- 明治二年己巳6月、高崎藩となり、後に高崎県と称する。
- 明治四年辛未11月、入間県に属する。
- 明治六年6月、熊谷県の所轄となる。
里程
- 熊谷県庁より南少し東11里24町4尺
- 四隣:本郡大和田町へ35町18間。野火止村へ32町58間3尺。宮戸村へおよそ13町、入間郡水子村へおよそ15町。
- 近傍:入間郡川越町へ4里3町32間1尺、所沢村へ2里45町57間4尺、大井町へ1里34町11間、同郡白子村へおよそ2里あまり、足立郡浦和宿へ2里13町6間、与野町へ2里6町1間1尺
地勢
- 四方平衍(平らで広く)(柳瀬川の沿辺は水田開けて卑湿である)、西北は柳瀬・新河岸の2川を帯びる。船・筏・車馬の便を得ている。もっとも薪・炭に乏しい。
地味
- 黒・赤がお互いに混じり、その質は悪く、稲・粱に適しない。菽(豆)・麦に応じている。水利の便を得るけれども、溢れてその害を被ることも少なくない。
税地
- 田:58町1反4畝10歩
- 畑:140町1反1畝23歩
- 総計:198町2反6畝3歩
飛地
- 本村の東北方、本郡宮戸村のうち、字上野 畑(6反2畝6歩)、字中野 田(2町9畝1歩)
字地
- 亭の下(ちんのした):本村西北にある。往古、在原業平が下向したとき、田面郡司長勝が新たに館と亭台を建て、ここに入った。それで世俗に亭の下という、と。東西1丁10間・南北2丁40間
- 小荷田(こにた):本村西の方にある。往古からこの地は深い田であり、車馬の便を得ない。稲を小荷に作り、運送したことから小荷田という、と。東西2丁20間・南北2丁40間。
- 陣場(じんば)本村東の方にある。天文年中、上杉謙信が関東を襲ったとき、大石政吉を撃とうとして陣取りしたところであるため、今も陣場という、と。東西3町30間・南北4町50間。
- 高橋(たかはし):本村北の方にある。天文のころ、大石政吉の居城から難波田弾正の居城へ通路の橋があったために高橋という、と。東西2町・南北3町
- 田子山(たこやま):本村東北にある。駿河国富士山遠望の地である。ゆえに世俗に田子山という、と。東西3丁・南北5町。
貢租
- 地租:米226石9斗9升6合、金200円87銭
- 賦金:金970円14銭1厘
- 総計:米226石9斗9升6合、金1171円1銭1厘
戸数
- 本籍:410戸(平民)
- 寄留:6戸(平民)
- 社:2戸(村社1坐、平社1坐)
- 寺:2戸(新義真言宗)
- 総計:420戸
人口
- 男:1041口(平民)
- 女:988口(平民)
- 総計:2029口(ほか出寄留 男13人・女6人、外寄留男13人・女4人)
牛馬
- 牡馬:13頭
舟車
- 荷船:17艘(100石未満50石以上10艘、50石未満7艘)
- 荷車:117両(中車)
- 人力車:8両
- 農業車:43両
- 総計:168両
山川
- 新河岸川:深いところで1丈、浅いところで4尺、広いところで10間、狭いところで7間。舟・筏を通す。入間郡宗岡村・水子村の間から来て、引又橋の上で柳瀬川を受け、東北に流れ、本郡宮戸村との境界に入る。その間、8町34間1尺。
- 柳瀬川:深いところで1丈、浅いところで9尺、広いところで5間、狭いところで4間あまり。舟・筏は通さない。大和田町から来て西北の境に従い、北流して新河岸川に注ぐ。その間、1里7町31間。
- 玉川分水:深いところで3尺、幅6尺。野火止村から来て旧奥州街道に沿って北流し、市街の中央を貫いて、筧を通して宗岡村に入る。長さ15町47間。
- 江川堀:深いところ5尺、浅いところ1尺、幅2間。大和田町から来て耕地を灌いて柳瀬川に入る。その間、14町22間。
- 引又橋:旧奥州街道に属し、本村の北境、新河岸川の上流に架して宗岡村に通す。長さ15間3尺、幅2間。土造。この橋は元和九年の当時の代官が指揮し、官費で架設した。後、延宝二年に至って、本郡と多摩郡・入間郡3郡のうち39村に課して再び修理して架した。その後、右に準じて民費であるという。
- 石橋:字中道に属し、村の西の方、江川堀の下流に架し、水子村へ通す。長さ8尺、幅9尺。石造。
- 鎧橋:奥州街道に属し、村の東方、玉川用水の下流に架す。長さ1間2尺、幅1間。石造。
- 景福橋:同上。長さ1間半、幅1間2尺、石造。
森林
- 林:氷川社旧境域を割き、収めて今官有に属する。東西7間、南北38間、反別8畝8歩。小樹繁茂、大木なし。
池沼
- 弁天池:東西9間3尺、南北3間3尺、周回27間、深いところ6尺。本村己の他方、長勝院の北裏にあって、耕田の用水としている。
道路
- 旧奥州街道:本村南の方、本郡野火止村界から北の方、入間郡宗岡村境界に至る。長さ16町35間、幅4間。
- 大和田道:本村西の方、本郡大和田町界から東方、本宿の市街に入り、奥州街道に合流する。長さ23町35間、幅平均2間
- 中道:本村南方、奥州街道から分かれ、西北の方、入間郡水子村界に至る。長さ15町30間、幅2間3尺
- 掲示場:本村東口よりおよそ8町にある。
堤塘
- 堤:柳瀬川に沿い、本村の西の方、大和田町境より村内、字高橋に至る。長さ1143間、馬踏6尺、堤敷5間。根堅め末・過ぎ・葉竹を用いる。修繕費、大破は官に属し小破は民に属する。
神社
- 氷川社[1]:村社。社地は東西21間・南北39間・面積769坪。本村の子(北)の方にある。素戔嗚尊を祭る。勧請年月未詳。祭日3月15日。境内に数百年を経た椋の老樹がある。
- 浅間社:平社。社地は東西33間・南北31間・面積656坪。本村の寅(東北東)の方にある。木花開耶姫命を祭る。勧請は暦応三年11月である。祭日は4月の初申日、6月1日、6月15日、7月21日。
- 八幡社:平社。社地は東西13間3尺・南北20間・面積254坪。本村の亥(北北西)の方にある。応神天皇を祭る。創建未詳。祭日3月15日。
- 稲荷社:村社。社地は東西20間・南北15間・面積214坪。村の丑(北北東)の方にある。倉稲魂命を祭る。祭日2月初午。
- 稲荷社:村社。社地は東西10間4尺5寸・南北5間1尺5寸・面積45坪。村の丑(北北東)の方にあり、倉稲魂命を祭る。祭日2月初午。
- 白山社:村社。社地は東西9間・南北9間・面積67坪。村の未(南南西)の方にある。伊弉諾尊を祭る。祭日9月19日。
- 神明社:平社。社地は東西7間3尺・南北5間・面積31坪。村の酉(西)の方にある。天照大神を祭る。祭日3月15日。
- 稲荷社:平社。社地は東西11間・南北11間3尺・面積85坪。村の未(南南西)の方にある。倉稲魂命を祭る。祭日2月初午。
- 稲荷社:平社。社地は東西11間・南北9間3尺・面積92坪。村の午(南)の方にある。倉稲魂命を祭る。祭日2月初午。
- 稲荷社:平社。社地は東西19間・南北9間3尺・面積135坪。村の午(南)の方にある。倉稲魂命を祭る。祭日2月初午。
- 神明社:平社。社地は東西12間3尺・南北4間3尺・面積49坪。村の未(南南西)の方にある。天照大神を祭る。祭日3月15日。
- 白山社:平社。社地は東西10間・南北18間3尺・面積144坪。村の未(南南西)の方にある。伊弉諾尊を祭る。祭日9月19日。
- 稲荷社:平社。社地は東西5間・南北5間3尺・面積26坪。村の丑(北北東)の方にある。倉稲魂命を祭る。祭日2月初午。
- 水神社:平社。社地は東西6間・南北3間・面積20坪。村の丑(北北東)の方にある。罔象女(みづはのめ)命を祭る。祭日2月初午。
- 弁天社:平社。社地は東西19間・南北16間・面積305坪。村の亥(北北西)の方にある。市杵島姫命を祭る。祭日3月15日。
- 八幡社:平社・社地は東西6間3尺・南北12間3尺・面積62坪。村の戌(西北西)の方にある。応神天皇を祭る。祭日3月15日。
仏寺
- 宝幢寺:東西68間・南北44間・面積1996坪。新義真言宗、山城国醍醐三宝院の末派である。本村の丑(北北東)の方にある。開基・創建は詳らかではないが、古い寺と伝える。
- 長勝院:東西21間・南北21間3尺・面積464坪。新義真言宗、本郡大和田町普光明寺の末派である。本村亥(北北西)の方にある。開基・創建は未詳。
学校
- 公立小学校:志木学校と称する。本村丑(北北東)の宝、宝幢寺本堂を仮用している。生徒は男女110人。
町事務所
- 当時、宝幢寺厨房を仮用している。
郵便局
- 当時、取扱人の宅舎を仮用している。
古跡
- 城墟:里俗に柏ノ城跡という。村の中央より少し北の方にある。東西4町10間・南北3町20間。回字形であり、高低が僅かにある。昔、小田原北条氏の家士・大石越後守がここにいた。天正十八年、豊臣氏のために滅んだという。また、風土記によれば、大石越後守は多摩郡滝山城主大石信濃守の一族であろう。天正九年、北条・武田両家の間の和議が破れたとき、駿河国分国境目の抑えとして同国獅子浜の城に越後守を籠め置いたことが小田原記に載っている。天正十八年、上方の大軍が小田原の城を攻めたとき、この人は同じ城にあって、最後に寄せ手のために城を明け渡したということが北条五代記などの書に見えるので、このとき、己の館も敵のために討ち滅ぼされたであろうと載せている。この城跡の地形のある西北は懸崖、その下は深田であり、東南は平衍、西から北に至ってははるかに富嶽(富士山)および近国の高山を望み、景観はすこぶるよろしい。
- 東明寺廃趾:東西10間・南北15間3尺・面積55坪。新義真言宗宝幢寺の末派である。明治四年12月、本寺は宝幢寺に合併した。
物産
- 米:444石5斗
- 大麦:643石
- 小麦:145石6斗
- 大豆:155石
- 小豆:12石4斗
- 粟:89石4斗
- 蕎麦:37石4斗
- 米・麦・大豆は、大半は近傍で販売し、甘藷は東京に輸出している。また、この地は郡中の繁盛を極めた市墟であるため、多く耕器も製造している。
民業
- 男:農を業とする者215戸、工を業とするもの34戸、商を業とするもの94戸、雑業するもの57戸、医術を業とする者3戸
- 女:おおむね農・桑・紡織を専らとする。
注記
- ↑ 舘氷川神社
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志木宿 | 現志木市南部 |
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