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* | *宝永二年乙酉(1705年)3月(大成武鑑には、元年(1704年)12月とする。今、村吏の記録・申告及び風土記等による)[[松平輝貞|松平右京大夫輝貞]]([[上野高崎城]]主)に賜い、累世これを領す(宝永以前は未詳。風土記に「[[松平信綱|松平伊豆守信綱]]から正保四年(1648年)に1万5000石の加恩の地があるので、おそらくはこの時に賜ったのであろう。子息・[[松平輝綱|甲斐守輝綱]]に至り、寛文三年(1663年)、埼玉郡にあった[[平林寺]]をこの地に移されたことが家伝に見える。このころも輝綱の領分であって、その子・信輝のとき、元禄七年(1694年)川越より下総国へ移封があったので、同じ時、この地も公に返されたと見えるが、この間のはいまだ詳らかではない」とある。信綱がこの地を開いたと伝えるので、その通りなのかもしれない)。 | ||
*維新の際、村高553石8斗2升7合あり。 | *維新の際、村高553石8斗2升7合あり。 | ||
* | *明治二年(1869年)己巳6月、[[高崎藩]]となり、[[高崎県]]となる。 | ||
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===里程=== | ===里程=== | ||
*熊谷県庁より南少し東12里3町 | *熊谷県庁より南少し東12里3町 | ||
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*増田右衛門尉長盛<ref>増田長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代の武将である。豊臣氏五奉行の一人で、大和郡山城主となった。関ヶ原の戦に西軍に与し、所領を没収された。後、豊臣秀頼に従って自刃した。</ref>墓:村の南から少し西、平林寺裏、村民共有の瑩城にあって、古碑面に「元和元年卯五月二十七日」と刻まれている。長盛は豊臣氏に仕え、功労多くて世にその名を知られる。また、風土記にも細かく述べられているため、ここでは詳しく述べない。 | *'''[[増田長盛|増田右衛門尉長盛]]墓'''<ref>増田長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代の武将である。豊臣氏五奉行の一人で、大和郡山城主となった。関ヶ原の戦に西軍に与し、所領を没収された。後、豊臣秀頼に従って自刃した。</ref>墓:村の南から少し西、平林寺裏、村民共有の瑩城にあって、古碑面に「元和元年卯五月二十七日」と刻まれている。長盛は豊臣氏に仕え、功労多くて世にその名を知られる。また、風土記にも細かく述べられているため、ここでは詳しく述べない。 | ||
===神社=== | ===神社=== | ||
*''' | *'''[[野火止氷川神社|氷川社]]''':村社。社地は東西26間・南北16間1尺5寸・面積394坪。村の東南の端にある。素戔嗚尊を祭る。祭日4月28日。創立未詳。 | ||
*'''神明社''':村社。社地は東西41間・南北28間3尺・面積313坪。村の西北の辺にある。大日孁命を祭る。祭日4月15日。創建未詳。 | *'''[[野火止神明神社|神明社]]''':村社。社地は東西41間・南北28間3尺・面積313坪。村の西北の辺にある。大日孁命を祭る。祭日4月15日。創建未詳。 | ||
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2025年1月11日 (土) 21:24時点における最新版
- 現代語訳=シラキのコホリのツカサ
野火止村(のびとめ)
本村はいにしえ広沢庄・野方領に属し、明治維新以前は野火止宿と称していた。(風土記に、「野火止宿の名、正保のころはまだ聞こえなかったが、そのころ改訂の絵図に野火止塚を載せているため、宿の名はここから起こったことがわかる。しかし、この地が開けたのは古いことでもない。土地の人の説によれば、領主松平伊豆守信綱が開いたものであるという」と載せている)
疆域
東は本郡 田嶋・浜崎・溝沼・膝折の4村に隣り、東南は本郡 片山村に界し、南から西は多摩郡 神山・門前・小山・下里・前沢・柳久保・粂川・清戸・中里・下宿の十村および本郡 大和田町・菅沢村などに連なり、北は本郡 北野村・志木宿に接している。
幅員
- 東(膝折村境から)西(下宿境に至る)32町10間
- 南(片山村境から)北(志木宿境に至る)1里4町10間
管轄沿革
- 宝永二年乙酉(1705年)3月(大成武鑑には、元年(1704年)12月とする。今、村吏の記録・申告及び風土記等による)松平右京大夫輝貞(上野高崎城主)に賜い、累世これを領す(宝永以前は未詳。風土記に「松平伊豆守信綱から正保四年(1648年)に1万5000石の加恩の地があるので、おそらくはこの時に賜ったのであろう。子息・甲斐守輝綱に至り、寛文三年(1663年)、埼玉郡にあった平林寺をこの地に移されたことが家伝に見える。このころも輝綱の領分であって、その子・信輝のとき、元禄七年(1694年)川越より下総国へ移封があったので、同じ時、この地も公に返されたと見えるが、この間のはいまだ詳らかではない」とある。信綱がこの地を開いたと伝えるので、その通りなのかもしれない)。
- 維新の際、村高553石8斗2升7合あり。
- 明治二年(1869年)己巳6月、高崎藩となり、高崎県となる。
- 明治四年辛未(1871年)11月、入間県に属する。
- 明治六年(1873年)6月、熊谷県の所轄となる。
里程
- 熊谷県庁より南少し東12里3町
- 四隣:本郡膝折村へ15町。大和田町へ12町3尺。菅沢村へ13町。志木宿へ1里10町。
- 近傍:入間郡所沢町へ2里18町3間、大井町へ2里3町
地勢
- 平衍(平らで広く)、巽(南東)から乾(南西)に延袤し(広がり)、西南の一部は最も狭く、村脈断続し、点々と配列して、多摩郡の諸村に入り込んでいる。そして、道路が四方に達しているため、運輸の便を得る。また薪・炭の資源に富む。
地味
- 色は赤黒の交種であり、その質は豆・麦・藍葉に適している。もっとも、高く乾燥しているため、時々旱魃に苦しんでいる。
税地
- 畑:586町7反8畝27歩
飛地
- 本村の北方、本郡志木宿の内、畑(18町4反4畝20歩)、宅地(5反7畝10歩)、林(11町2反3畝20歩)
- 南の方、多摩郡下里村の内、畑(3町3反8畝29歩)、宅地(1反8畝19歩)、林(9反2畝)
- 北の方、入間郡針ヶ谷村の内、畑(3町1反7畝24歩)、林(2畝3歩)
- 北の方、本郡大和田町の内、畑(9反1畝15歩)、林(6町7反4畝5歩)
- 同町(中野分)の内、畑(6町6反7畝20歩)、林(3町4反2畝22歩)
- 西の方、多摩郡下清戸村の内、畑(3反3畝11歩)、林(10町3反1畝23歩)
- 西の方、同郡中清戸村の内、畑(5町6反6歩)、林(11町5反7畝16歩)
- 西の方、同郡上清戸村の内、畑(4町7畝15歩)、林(1町4反8畝29歩)
- 西の方、同郡野塩村の内、畑(11町2反7畝12歩)、林(16町6反7畝25歩)
- 南の方、同郡前沢村の内、畑(5町6反4畝12歩)、林(4町1反2畝20歩)
- 南の方、同郡小山村の内、畑(3町1反2畝)、林(6町2反1畝5歩)
- 南の方、同郡神山村の内、畑(5反4畝9歩)、林(1町8反4畝1歩)
- 南の方、本郡片山村の内、畑(4町6反1畝13歩)、林(5反1畝7歩)
- 南の方、多摩郡門前村の内、畑(1町2反7畝24歩)、宅地(1反4畝15歩)、林(1町9反8畝10歩)
- 西の方、本郡菅沢村の内、畑(3反1畝6歩)、林(21町7反4畝17歩)
- 西の方、多摩郡中里村の内、畑(3町7畝8歩)、林(1町6反2歩)
字地
- 上北側(かみきたがわ):村の北方にある。東西4町42間3尺・南北425間
- 下東側(しもひがしがわ):村の東の方にある。東西13町1間・南北420間
- 東(ひがし):村の北の方にある。東西3町・南北5町3尺
- 西(にし):村の西の方にある。東西5町・南北4町5間3尺
- 陣屋(じんや):村の南の方にある。東西3町4間・南北6町2間
- 並木(なみき):村の南の方にある。東西3町3尺・南北1町2間
- 中原:村の南の方にある。東西1町15間・南北7町5間2尺
- 南側:村の南の方にある。東西17町25間・南北7町
- 上南側:村の南の方にある。東西2町30間・南北3町40間
貢租
- 地租:金540円46銭3厘
- 賦金:金52円27銭5厘
- 総計:金592円73銭8厘
戸数
- 本籍:170戸(士族10戸、平民160戸)
- 寄留:10戸(平民)
- 社:2戸(村社)
- 寺:1戸(臨済宗)
- 総計:173戸
人口
- 男:502口(士族21口、平民481口)
- 女:497口(士族23口、平民474口)
- 総計:999口(ほか出寄留2人(男1人(平民)・女1人(平民))、入寄留男15人(平民)、女13人(平民))
牛馬
- 牡馬:10頭
舟車
- 荷車:120両(大3、小117)
- 人力車:9両
- 総計:129両
山川
- 多摩川分水:深いところで3尺、浅いところで2尺。幅1間。村の南の方、西堀村から来て、清冷で村内の飲料となり、北の方、志木宿に入る。その間20町余。また、分支の細流が数条ある。左右に折れ、平林寺の寺域をめぐったり、村内を迁匯(せんかい)して飲用水となり、隣村に入って耕田の用水となり、反流して幹流に合流するものもある。一々載せられないほどである。
森林
- 林:平林寺の寺域が分裂地であって官有に属する。反別は1町2反9畝11歩。小松・樫の雑木が繁茂している。
- 林:民有に属する。四方に散在して一々記載できない。飛地にある分も含めて計311町4反3畝18歩。
道路
- 川越街道:本村の辰の方(東南東)膝折村との境界から戌の方(西北西)大和田町との境界に至る。長さ17町25間、幅4間
- 旧奥州街道:本村の西南の間、菅沢村との境界から北東の間、志木宿との境界に至る。長さ26町59間3尺、幅4間
- 村道:字午房道という。中央より少し南の方にあって、西の方、菅沢村との境界から東の方、片山村との境界に至る。長さ4町30間、幅30間。
陵墓
- 増田右衛門尉長盛墓[1]墓:村の南から少し西、平林寺裏、村民共有の瑩城にあって、古碑面に「元和元年卯五月二十七日」と刻まれている。長盛は豊臣氏に仕え、功労多くて世にその名を知られる。また、風土記にも細かく述べられているため、ここでは詳しく述べない。
神社
- 氷川社:村社。社地は東西26間・南北16間1尺5寸・面積394坪。村の東南の端にある。素戔嗚尊を祭る。祭日4月28日。創立未詳。
- 神明社:村社。社地は東西41間・南北28間3尺・面積313坪。村の西北の辺にある。大日孁命を祭る。祭日4月15日。創建未詳。
仏寺
- 平林寺:東西228間・南北221間・面積20914坪。村の南、少し西にある。臨済宗山城国愛宕郡妙心寺の末山である。北朝永和元年乙卯(1375年)創立。同年、元国の僧 古林禅師の法嗣 石室和尚の開山とする。天正二十年(1592年)、鉄山という者が中興した。当時、妙心寺派になるという。当時はもと埼玉郡岩槻の近傍、平林寺村にあって、ことに古刹であったが、寛文(1661年~)のはじめ、松平伊豆守信綱が今の地へ移そうという企てがあったが、果たされなかった。同三年(1663年)に至り、その子、甲斐守輝綱が父の志を継いでこの地に移し、父・信綱をはじめことごとく改葬した。これより、寺領も改めて西堀村にて賜ったという。
学校
- 公立小学校:町の南方、平林寺を仮用している。生徒は男67人・女13人。
村事務所
- 当村戸長の宅舎を仮用している。
古跡
- 野火止塚:土地の人は九十九塚と称する。正保ころの図や風土記等はこの呼び方で記している。本村の南から少し西、平林寺の後ろにある。およそ5間四方、高さはおよそ2丈。雑木が生え茂っている。
- 業平塚:野火止塚の横にある。2間四方、高さ2尺あまりで、小さい樹が生えている。その中に、高さ3尺・幅1尺8寸の石碑がある。文字は不詳。両塚とも由緒は未だ定かではない。口碑・伝説があるが、ことごとく付会であって、信じられない。
物産
- 大麦:1100石
- 小麦:639石2斗
- 大豆:420石1斗8升
- 小豆:8石7斗
- そば:27石4斗8升
- 小麦・大豆等は余裕があり、藍葉とともに本郡志木宿あたりへ売り、甘藷もまたよくできるので東京に輸出している。
民業
男女ともに農業を専らとする。
注記
- ↑ 増田長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代の武将である。豊臣氏五奉行の一人で、大和郡山城主となった。関ヶ原の戦に西軍に与し、所領を没収された。後、豊臣秀頼に従って自刃した。
大和田町 - 野火止村 - 菅沢村 - 西堀村 - 北野村 | 現新座市北部 |
志木宿 | 現志木市南部 |
上内間木村 - 下内間木村 - 宮戸村 - 田島村 - 浜崎村 - 溝沼村 - 岡村 - 根岸村・台村 | 現朝霞市の大半 |
上新倉村 - 下新倉村 - 白子村 | 現和光市 |
橋戸村 | 現練馬区大泉町付近 |
膝折村 | 現朝霞市膝折 |
片山村 | 現新座市南部 |
上保谷村 - 上保谷新田 - 下保谷村 | 現西東京市東部 |
小榑村 | 現練馬区大泉学園町・西大泉・南大泉付近 |