武蔵国新座郡村誌/菅沢村
提供:シラキのコホリ
< 武蔵国新座郡村誌
- 現代語訳=シラキのコホリのツカサ
菅沢村(すがさは)
本村は寛文(1661年~1673年)年中の開発(風土記に、「寛文のころ、信綱が新たに開いた野火止宿の新田であるため、正保(1645~1648年)の絵図には未だ載っていない」とある。また、里胥(村の役人)によれば承応(1652~1655年)のころの新開というが、証拠となるべきものがないため、今は採用しない)であり、当初から野方領に属する。
疆域
東・北・西の三面は本郡
東は本郡 野火止村に接し、正南は西堀村に隣接し、南西は多摩郡下清戸村とあぜ道で区切られている。
幅員
- 東(字山下から)西(字奥州道北側まで)13町20間
- 南(字東京道南側から)北(字奥州道まで)11町
管轄沿革
- 元禄七年(1694年)、松平美濃守吉保の提封
- 宝永二年(1705年)から松平右京太夫輝貞がこれに代わって世襲する
- 維新の際、村高165石2斗1升あり。
- 明治二年己巳(1869年)高崎藩となり、後に高崎県と称する。
- 明治四年辛未(1871年)11月、入間県に属する。
- 明治六年(1873年)6月、熊谷県の管轄となる。
里程
地勢
- 高く乾燥し、坦夷(平ら)。旧奥州街道が村の中央を南北に貫く。運輸は便利で薪炭の余りがある。
地味
- 色は赤黒で質は悪く、小麦・甘藷にはほぼ適するが、他の穀物にはよくない。水利に乏しく、時々旱魃に苦しんでいる。
税地
- 畑:113町6畝26歩
字地
- 山下(やました):本村の東辺にあって野火止村に斗入している。東西70間・南北2町30間。
- 奥州道北側(あふしうみちきたがは):多摩川分水の北に散る。東西12町30間・南北4町45間。
- 奥州道南側:旧奥州道の南側に沿う。東西5町40間・南北2町25間。
- 東京道南側:村の南にあって西堀村に接する。東西5町20間・南北3町30間。
貢租
- 地租:金84円18銭1厘
- 賦金:金20円50銭
- 総計:金104円68銭1厘
戸数
- 本籍:44戸(平民)
- 社:1戸(村社)
- 庵:1宇
- 総計:46戸
人口
- 男:145口
- 女:150口
- 総計:295口
牛馬
- 牡馬:8頭
舟車
- 荷車:35両(小車)
山川
- 玉川分水:深いところで2尺、幅3尺。南の方、多摩郡下清戸村と本郡西堀村との境から来て北流し、旧奥州街道に至って斜めに折れ、道に沿ってともに東北の方、野火止村に入る。その間19町11間。
- 橋:旧奥州街道に属し、玉川分水に架す。幅5尺、長さ4尺、石造。
森林
- 八幡林:官有に属する。反別4畝5歩。本村の東の方にあり、材料に適している。
- 渋山林:民有に属する。反別15町5反6畝29歩。本村の南の方にある。
- 菅の尾林:民有に属する。反別28町7反3畝10歩。本村の北方にある。
- 民有の両林は楢あるいは痩松が生えている。
道路
- 旧奥州街道:本村の西南の方、多摩郡下清戸村界から東北の方、本郡野火止村界に至る。長さ13町44間、幅5間。
- 東京道:本村の南にある。西の方、下清戸村界から東の方、野火止村界に至る。長さ5町40間、幅4間。
- 掲示場:村の中央、旧奥州街道の側にある。
神社
- 若宮八幡社:村社。社地は東西15間・南北20間・面積300坪。村の中央より少し東北の方、旧奥州街道の傍らにある。祭神大鷦鷯尊(仁徳天皇)。祭日4月17日。
仏寺
- 庵:また法華堂ともいう。面積219坪。村の寅(東北東)の方にある。開基未詳。延宝年中の創建であるという。
村事務所
- 当時の戸長の宅舎を仮用している。
物産
- 米:22石3斗2升
- 大麦:214石3斗
- 小麦:65石
- 大豆:73石1斗8升
- 小豆:1石4斗
- その他、甘藷を作り、本郡志木宿あるいは東京辺で売る
民業
男女農耕を専らとする。
注記
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志木宿 | 現志木市南部 |
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片山村 | 現新座市南部 |
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